naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

ウルトラマンで行こう(2001)

ウルトラマンで行こう

今、新しいウルトラマン、「ウルトラマンコスモス」が始まった。
すでに三ヶ月、1クール分が終わったが、二年前までの平成三部作、特に「ウルトラマンティガ」のようなクールさが消え、ほのぼのムードの”変化球的”ウルトラである。なによりこのウルトラマンコスモスの第1形態「ルナモード」は青色で、怪獣を攻撃しないで、改心を促す?のがモットーであるところが違っている。「コロナモード」という赤い攻撃形態もあるのだが最初は一所懸命改心を促すのに頭に来たら;)変身してやっつける、と見えてしまう。この”戦わないウルトラマン”はマニアの間では不評である。
同時に制作者側にとっても苦悩の時代であることが見て取れる。現実のあまりに残虐、理不尽な犯罪、それが幼児、児童、弱者へ向かう。無論テロ事件の前に企画はスタートしているのだが、むしろ身近な世界での犯罪の方が心を蝕む。しかし・・。

あえて、制作者に言いたい。それだからウルトラマンも怪獣を殺しません、というのは制作者の奢りだ、と。ウルトラマン「正義の味方」なのだ。我々の世代は、戦争体験者の制作者によって、非常に単純な「正義」を見せられ続けてきた幼児体験を持つ。しかし未だに語り継がれている手塚治虫作品や初期ウルトラシリーズでは、子供の喜ぶ活躍シーンを織り交ぜながら、話の縦糸に世間の矛盾やヒーローの苦しみが織り込まれていたのだ。だからこそ”幼児的大人”と揶揄されながら大の大人が過去の作品を色褪せさせずに正当に評価しているのである。しかし今現在、実際には「正義」の見えない時代、「正義」に自信のない大人達。これが子供達に丸見えなのだ。それがどんな影響を与えるか。

かつての子供達、つまり自分達だが、だって知っていた。テレビでやっている「正義」なんて実際にないことを。また「根性」だけで勝てないことを。それでも心の中ではその「正しいこと」を信じることだけはできた。年齢を経て、かつて見たストーリーを見返すときに仕掛けられていた「話の奥深さ」を発見することで当時の制作者の真摯な態度に感銘し、再評価するのである。でもいまウルトラマンを見てもどこを見ても「正義」が見えない。現実と変わらない矛盾を見せつけられて、それでは面白くない。いきおい話の筋の分からない幼児しか残らない。その幼児も「かいじゅうをやっつけない」のだからつまらない。(現実の事件の話ではないので念のため)

あんなに暴れていた怪獣をウルトラマンコスモスがやっつけずに帰っていくのを見て、三歳の子供はとまどっている。僕は制作者にお願いしたい。ウルトラマンはやっぱり「ウルトラマンで行こう」。子供にはまずはわかりやすい「正義」を見せてあげよう。その上で10年後でもいい。もう一度見返したとき、その話のひだに織り込まれたメッセージを見つけてもらおう。そのためには見返したくなるほど面白いことが重要だ。

デパートの屋上のウルトラマンショー、就学前の子供が多かったが、彼らの目にはテレビで活躍する巨大なヒーローの姿が、目の前の舞台のアルバイトが入った着ぐるみに重なって見えたに違いない。あなたがたはそれほど偉大なヒーローの末裔を手がけているのですよ。

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2001年10月5日