naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

手塚治虫と宮﨑駿 1

手塚治虫展ー未来へのメッセージー」を見に行った。江戸東京博物館(この建物はいつも人のことを考えていない建物だと思う。入り口が判らない上、駅改札から遠回りをさせられる)にて、6月21日までとなっている。
この展覧会は、手塚治虫の生誕80周年ということで企画された。手塚治虫は1928年11月3日生まれということで、1989年、60歳で亡くなっている。(しばらくの間、年齢詐称?があって62歳が没年齢とされていた)

この手の書き物は多く、今更感があるが、確認の意味で経歴を書いておく。

手塚治虫は本名は手塚治。大阪府豊中市出身。数年後兵庫県宝塚市に転居。父粲は会社員であったが、曽祖父手塚良仙は医師、祖父手塚太郎は司法官という家系で、当時から父が映写機を使って家族を撮影する(博物館で上映されていた)ほど裕福な家庭で育った。
池田師範付属小学校(現大阪教育大学附属池田小学校)、大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)の時期に太平洋戦争を体験し、以降、その死生観が作品に大きく投影される。
同時に、昆虫や天文に興味を持ち、すでに「治虫(おさむし)」をペンネームに独自に漫画を書き出している。

1945年7月、大阪帝国大学附属医学専門部に入学。これは軍医速成のために臨時に付設されたものということで、高等学校ではない。手塚の経歴は一般に、1944年、旧制浪速高校理乙入学、1945年に大阪大学医学部入学となっていたが死後詐称が明らかになった。

もちろん医師免許、博士号も持つ手塚を貶めるものではないのだが、本人は生前、この経歴で通した(訂正しなかった)。
このことについて、「漫画家の社会的地位向上のため、帝国大医学生の肩書きが必要だった」という好意的な見方がされているが、筆者は、単純に「虚栄心」とまではいかないまでも「見栄っ張り」だったのではないかと思う。
福井英一、水木しげる石森章太郎などとは対抗心を燃やしたり直接的に攻撃したりした、というところは”人間らしい”という人もいるが「一番で無いと気が済まない見栄っ張り」でしかない。

見栄っ張りというと否定的に受け取られるかもしれない(実際そういう人とは付き合いにくい)が、”天才”という人種はそのくらいでないとだめだと思う。今の感覚で言えば60歳で早世した人物が死後数十年経ってもいまだ”神”なのは、それだけ高密度で多岐にわたるテーマで漫画を書き続けただけでなく、巨匠と言われるようになってからも、若手に対抗心を燃やして自我を出し続けたからだ。


かといって、筆者が単純に手塚信者なのだと思われてしまうと、これから書きたいことが曲解されかねないので、書いておくと、たしかに筆者は1960年生まれで、初期の手塚作品は当初は知らなかったが、鉄腕アトムがアニメーションで始まる時期に、光文社カッパコミックスで「鉄腕アトム」を読み育った世代である。「地上最大のロボット」が最も好きな作品であるが、一方で駄作?も多いと思っている。初期作品シンパ(アニメ以降の単純タッチが許せない人)とは違うが、かといってテレビ進出を狙った作品「W3」「マグマ大使」「ビッグX」などにはあざとさが目について好きになれなかったりする。

しかし、漫画に多種多様の世界観(スポーツものはのぞく)をもたらした希有の天才を尊敬するものである。

そういう思いを持ちながら、手塚治虫展を見たのだが、本物の生原稿が見られる展示会はめずらしく、筆者も久しぶりに見、さらに以前見なかったものまで数多くあって、漫画好きの一人として感動した。


その会場で販売されている「カタログ」は、内容がそれほどでもなかったので買わなかったが、買わなかったもう一つの理由が、巻頭に載っていた著名人のインタビューの、宮﨑駿の記事に不快感を持ったからだ。

(未完)