naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

1995年1月28日神戸

15年経った。当時0歳だった長女が高校受験だから、もう遠い昔なのかもしれない。
1995年1月17日早朝発生した阪神大震災

筆者は神奈川在住で、当時も川崎市に住んでいたが、朝、大きめの地震で目が覚めた。どこの映像なのかはっきりしないまま、破壊された町並みを見た。
筆者の両親はともに神戸の出身であった。毎年、帰省すれば多くの親戚に会う。
何度か横浜に遊びにきた叔母は、ある日、震度1地震に驚き、怖がっていた。もう1000年近く地震らしい地震が無い神戸で生まれ育ったのであるから、地震を体験するのが初めてだったのだ。多くの神戸市民がそうであっただろう。そんな人が震度7の未曾有の地震を体験するとは、どんなに怖かっただろう。
筆者自身は巨大地震を体験したことはなく、また、この地震で幸い親戚で亡くなった者もいない。であるから、この地震のことを知ったように語ることはできないし、するべきではないと思う。
だが、地震の11日後、直接見た神戸の光景は、その元の姿を知る身にとって、地震の恐ろしさを見せつけるものであった。
2002年にこのブログの前身ホームページで、阪神電車に限ってその記録を書いたが、あらためて15年経った今、ようやくそのときの家屋の写真を、ここにとどめるのは、家屋の倒壊がどれほど予想以上のものなのか、知ることができると考えたからだ。

1月17日から数日間、神戸の親戚とは全く連絡が取れなかった。特に母方の実家は戦後すぐの日本家屋で、老朽化しており、年老いた祖母と、叔母の二人暮らしであったので心配された。結局3日後、大阪の叔父宅へ身を寄せることができたのだが、神戸市東灘区魚崎中町の家屋は全壊、中の荷物もほとんど取り出せないでいた。
1月26日、阪神電気鉄道が神戸市東灘区にある青木(おおぎ)駅まで部分開通した。大阪から神戸市内へはこの阪神電車がもっとも早く復旧したので、ここから神戸中心部、三宮まで阪神、阪急、JRの代行バスが走ることになった。
そこで、1月28日、病気だった母の代わりに筆者が母の実家へ、父は自分の実家へ向かった。
筆者は倒壊した家屋の中へ入って、荷物を取り出すことを目的としていた。

阪神電車青木駅は被災した人たちと大阪方面からの人たちでごった返していた。
実家は阪神電車魚崎駅が最寄りであるが、青木駅はその隣駅で、駅間の短い阪神なので大した距離ではない。しかし、路地は被災から11日経っても倒壊家屋で塞がったりしており、なにより倒壊の酷い惨状を目の当たりにして、素通りすることが心苦しかった。

実家の状況は外から見ると意外にましに見えた。屋根、窓の破損以外は遠目には外観をとどめていたからだ。
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だが実際には、一階部分が、山側に崩れ、隣にあるマンションの外壁に倒れかかって、かろうじて支えられていたのだった。

これは玄関から見た状況である。この玄関は昔の日本家屋なので、たたきから畳二畳ほどの間になっている。青い暖簾の奥には二階へ上る階段があった。
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この写真は、上の梁を見れば分かるが、水平であるから、側壁または柱の傾き具合がよくわかるだろう。普通はこの状態では倒壊するが、先述のように隣家に支えられたため、生存空間が残った。
奥の青い暖簾の奥は二階への階段であったが、崩れてしまった。二階からの脱出も困難になる。
それにしても家具のあまり無い玄関にして、すさまじい荒れ具合だ。床が見えない。このとき、電話が鳴ったが、電話機がどこにあるのかも分からないほどだった。おそらく受話器が外れたままで、交換機が復旧したので鳴ったのだろう。


この部屋は一階の居間で、その奥にもう一部屋ある。その仕切りは襖で、すべり部分が天井の梁の役目をしているのがわかる。この仕切りの破壊具合から、もしこれがなかったら二階が天井ごと抜け落ちたのではないだろうか。

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家具は、飛び跳ねていやに軽く見えるが、正面に見える箪笥は、黒檀(こくたん)と聞いている。これは特に重く固い材料で、実際、動かすことは困難だった。
他の棚類もかなり重量がある物で、それが簡単に飛んでしまったわけであるから、そこに人間がいたら大変なことになっただろう。
実は奥の間には、祖母が就寝中で、箪笥と箪笥の間に挟まれる形でわずかな隙間ができて助かった。しかし自力ではそこから抜け出すことができず、偶然通りかかった学生陸上選手(朝のトレーニング中だったらしい)に引っ張りだしてもらったという。

また、この写真は5月のものである。1月28日の時点ではもっと散らかっていた。入り込んで荷物を取ろうと箪笥を起こしたかったが、重かっただけでなく、動かせば倒れかかった壁が崩壊して埋まってしまう恐れもあったので諦めてしまった。それほど恐怖を感じる状況であった。
倒壊家屋は東灘区に非常に多く、二次災害の恐れもあることから解体が神戸市と自衛隊によって行われたが、順番待ちで結局5月になってしまった。この時点で残った品物を取り出そうとしたが、すでに泥棒にあってかなり無くなっていた。


第一阪神国道、国道43号線沿いにある覚浄寺。
大変な状況であった。
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日本家屋の、瓦屋根が倒壊を招いたとよく言われるが、確かに、神戸のこの状況を見るとそう感じる。
ただ、本来日本家屋は柔構造といわれる。高層ビルも採用しているように、上層と下層はそれぞれ横にずれるようになっている。また、屋根は上に乗っているので、台風時に屋根が飛ばされても下は持って行かれない。そして、瓦は地震の時に滑り落ちるように、土で止めているだけだ。奈良などの寺でその有効性が証明されている。

しかし、この寺や上の家屋の屋根瓦は落ちていないのである。近年の住宅ならば瓦の固定方法が変わっていても不思議は無いが、母の実家は戦後すぐの建築、寺の建物も戦災に遭っていなければもっと以前だろうか。いずれにしても本格的な日本建築なはずだ。この他にも、多くの日本家屋が同じように屋根に瓦を乗せたまま崩れているのを何軒も見た。

おそらく、今回の地震は横揺れよりも縦揺れが大きかったのではないだろうか。家屋ごと突き上げられた屋根は、乗せた構造であるから、浮き上がってその重みごと梁に落ちる。梁と柱はそれに耐えきれず、圧縮方向に座屈破壊され、結果として一階部分が倒壊する。上には屋根がそのままの形で残る。というメカニズムではないだろうか。倒壊家屋の多くが上から踏みつぶされたようになっていた状況からもそう考えられる。

ちなみに、理科で習った地震の縦波と横波は、揺れの方向ではない。縦波は地面の疎密波、横波は上下左右の震動波である。
縦揺れは横波の上下方向の振幅で、直下型地震で突き上げられるような揺れというのがそれである。
阪神大震災の反省から今は、耐震基準が厳しくなって、筋交いや強度壁が義務づけられているが、これらは上下振動への備えであり、横震動への対応はどうなのだろうか。横震動には日本家屋のような柔構造が有効だと思うが。


震災直後に、関東地方のテレビではこのような建物の強度がどうだとか、耐震設計がどうだとか間の抜けた番組報道が多く見られた。逆に忘れ去られつつあるいまこそ、そのような番組が重要だと思うが、本当にこのときは見ていて腹が立った。
先日、神戸新聞記者のドラマを見て、記者たちが、悲惨さを伝えるばかりではなく、希望を持てる記事作りをしようと考えたという。そのときにふとこのことを思い出したのだった。


そのような間抜けな報道がされていたころ、現地の小学校では避難した人々がつらい避難生活を強いられていた。この写真の魚崎小学校は戦前の重厚な造りで、無傷であった。神戸の学校は戦災にも耐えたものも多く、広い敷地を備えていた。避難所としては不便ながらも恵まれていた。
筆者の周辺の学校は、どうもひいき目に見てもこの建物ほど頑丈ではなさそうだ。広さも狭い。いざというときの避難所の状況を見ておいた方が良いかもしれない。
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それにしても、子供の頃、広い校庭に犬の散歩で行くと、犬は喜んで走り回るので追いかけるのが大変で、広い校庭だなあと思っていたが、この事態にあって、この広さは素晴らしいことだと思う。
ちなみに、この魚崎小学校も、最近立て替えられたが、校舎の大きさは変わらなかった。


最後に、阪神電車である。
青木駅まで開通したものの、そこから先には脱線した車両が、応急の車止めをしただけで放置されていた。動かそうにも動かせなかったのだ。公共機関とはいえ、私企業の社員が奮闘してくれたおかげで、この日に応援に行けたのだ。まったく感謝の思いだった。
阪神電気鉄道阪神間で最も被害が大きく、その全面復旧は、予測よりも半年も早く、1995年6月26日だった。しかし、他のJR、阪急より遅い復旧は、定期客の喪失につながった。また、自力再建は無理で、復興資金を国から受けることになったがそれもより時間がかかることになってしまった。
甲子園球場も破損したため、高校野球プロ野球の開催も危ぶまれたが、なんとか開催できた。
結果、阪神電気鉄道の存亡の危機はなんとか乗り越えることができたのである。
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この車両、5261-5262-5263-5264は、修繕され復帰、1999年に廃車されるまで、車齢ぎりぎりまで老体にむち打って走り続けた。


ちなみに、三宮にある父方の実家も終戦後すぐの木造商家だが、地震の数年前に、シロアリにやられ傷んでいた基礎から改修していたため、一階部分が無事だったので被害は少なかった。耐震補強の重要性を示すひとつの事例である。
そして、家は無事でも家具の転倒により足場も無くなることも覚悟しておいた方が良い。その対策が取れればさらに良い。

母も祖母も他界してしまったが、戦後期の思い出とともに実家が倒壊してしまったことはさぞ無念だったことだろう。家は人の命や財産だけでなく思い出も守る役目があるのだと思う。