naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

旧・東海道の面影1  境木

今回のブログを書こうと思ったきっかけは、この写真でした。 0174 長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベースにリンク たまたま本屋で見つけた「カメラが撮らえた神奈川県の昭和」新人物往来社編という本の中に、題名とは違って、明治の横浜の写真が入っていた中の一枚です。 この写真の場所は、旧東海道の境木立場です。立場とは宿間の休憩所です。 撮影時期は明治初期と思われ、日下部金兵衛という日本人写真家が撮影しました。この写真は明治時代なので、当然白黒写真なのですが、日本画家が着色した写真が、アルバムとして外国人にお土産物として販売されたそうです。これらの写真を「横浜写真」といいました。その先駆者が、1864年に横浜に写真館を開業したイタリア系イギリス人のフェリーチェ・ベアトでした。 日下部はベアトの弟子でした。 この写真をきっかけに調べてみると、横浜開港資料館や長崎大学に多くの江戸末期から明治時代の各地の写真が残されていることを知りました。開港当時の外国人が日本のエキゾチックな風景、風俗が興味を持ち、生麦事件や鎌倉事件を経て、日本を海外へ紹介するために撮影されたものですから、江戸東京を中心に、日光、鎌倉、長崎など有名各地の写真が残っていますが、そのなかで、東海道の写真が箱根とともに多く撮影されていたのが、保土ヶ谷から戸塚、藤沢までの松並木でした。 ベアトが横浜に居住していたので横浜関内周辺の写真がとても多いことは容易に想像がつきますが、東海道筋の写真では、神奈川宿より先は保土ヶ谷宿の写真は無く、戸塚宿もほとんど無く、なぜか境木周辺の写真が多いのは不思議です。おかげで自分の地元の写真がこうして見られるのはありがたいことです。 以前このブログに何度か書いたように筆者の育った地がこの境木周辺です。 「権太坂」と「境木」 境木のトンネル 権太坂から見た富士山 この明治時代の写真を見た時、筆者はすぐに境木だと思いました。それは単なる感ではなく、筆者が記憶している昭和40年頃の風景とほとんど変わらなかったからです。 その地元もこの30年で地形まで含め大きく変わりました。 このブログではこれから数回に分けて、変貌した今の写真と、筆者がカメラを持つようになった1980年頃の写真とを比較しながら、江戸時代の痕跡を見て行こうと思います。 境木は地図で見るとここになります。 ところが2000年以降宅地造成によってここの地形は大きく変わっています。 そこで横浜市に公開されている1961年(昭和36年)の地図を下敷きに、自作の地形図を書いてみました。 旧東海道を赤線で書いています。白枠の地名がこれから紹介しようと思う場所です。 1961map ここは東戸塚駅が出来てからもしばらくは静かなところでしたが、バブル期に開発が進み、その後環状二号線の建設で山が完全に切り崩されて地形が変わってしまいました。 筆者の記憶に残っている限界の1965年ごろ、この時期は平戸2、3丁目側の造成が完了し、境木本町、権太坂、平戸4−5丁目(電々団地)の宅地造成にかかる前でした。ですからかなり江戸時代の地形をとどめていたのです。 そこで、それ以前の、1961年の地形図をベースに宅地造成前の地形図を(一部想像も有りますが)書いてみたわけです。 参考に国道一号線とバス停も入れてみました。最近では歴史散歩でこのあたりを歩く方も多い様ですので参考になればと思います。 さて、 現在の境木です。旧東海道に立っています。 Sk23 先の明治の写真はこの旧東海道のカーブが見えています。ここよりも後方(江戸寄り)、やや高台から撮影しているようです。今は昭和30年代の造成により高台は有りません。 明治写真の藁葺き屋根家屋の奥に見えている高木は、境木と呼ばれる所以でもあるケヤキの木です。そちらの方へ向かって歩くと、立派な門がある屋敷が有ります。 Sk16 こちらは若林家のお宅でして、境木立場の名物であった牡丹餅茶屋を出していた旧家です。 今でも地主として一族の名前のついた場所が多数有ります。 Sk02 立場にしてはまるで本陣のような立派な構えです。ここは江戸から箱根へ向かう中で最も高台にある場所で、遠くに富士山、横浜の海をのぞみ、ちょっとした景勝地としても有名だったようで、東海道中膝栗毛や多くの浮世絵にも描かれています。前後に権太坂、焼餅坂、品濃坂といった急坂が有るため場合によっては宿泊もあったのでしょう。 Sk04 こちらは1983年の写真。このころは対面にも同じような門があったのですが今ではマンションが建っています。また門自体も板が新しく修繕されています。 Skp5420140619_150705dsc_1338 今の境木立場跡の看板です。 最近はこのような看板が立って、分かりやすくなりましたが、以前は何の案内もありませんでした。筆者は地元、境木小学校の社会科授業でそのことを知りましたが、むしろ親の方が知らなかったようです。 Sk03 その若林家を過ぎるとこんもりとした木々が見えます。 Sk01 ここは境木地蔵尊のお堂が有るところです。 境木地蔵は万治2年(1659年)に地蔵堂が建立されました。この年代は実は大きな意味を持ちます。それは権太坂の開通した年の前年なのです。その話はいずれまた。 Sk05 この境木地蔵はまるでおとぎ話のような言い伝えが有ります。伝承では、由比ヶ浜に打ち上げられたこの地蔵が、江戸へ行きたいと言うので、牛車にのせて行ったら車が動かなくなり、ここが気に入ったと言うので、下ろした場所に祠を立てて祀ったということです。 Sk15 今でこそ立派な石段で、案内も立っていますが、昔はただお堂が有るだけでした。人気が無く寂しいところでした。 Skp12920140619_160059dsc_1417 お堂の中の本尊は正月に御開帳されます。近年では多くの参拝者が列をなしますが、昔はそんなに人はいませんでした。 20140101_150324dsc_0251 お堂の中に本尊の石像が有るのですが、入口にもいくつか江戸時代の地蔵が有ります。 Sk06 正徳五年(1714)のものです。 Sk227 ここは昔も同じ雰囲気です。 Skp12820140619_155937dsc_1416
地蔵堂はもとは良翁寺の境内にあったが、同寺は関東大震災で被災して廃寺となり、現在は地蔵堂のみが残る。
ウィキペディアより引用) とありますが、境木地蔵再建の石碑が有ります。地蔵堂のみ再建したのです。 Sk230 1966年昭和41年のものです。この地域を開発した太洋不動産が建てた様です。 Sk231 この境内には大きな欅(けやき)が有ります。 Sk08 実は以前はもっと大きかったのですが幹から切られています。 Sk24 根本に境木大欅と彫られた石碑があります。 境木とはこの(これらの)欅の木のことです。ここは武蔵国相模国の国境だったことから境を示す木を植えたらしく、またここから東海道と武相国境道が分岐する地点でもあります。 Sk13 この背面にも昭和41年の記載が有ります。 Sk233 この写真は1979年のものです。上空を見上げて撮ったので大きさが分かりませんが今よりももっと背が高く、筆者が在学中の境木小学校の校舎からは、明治写真のように空高く良く見えました。 Skp12720140619_155921dsc_1415 これも1979年の写真です。こちらはもう一本あった大欅で、むしろこのほうが大きかったくらいです。西へ伸びる旧武相国境道の脇に立っていました。道標の意味もあったのでしょう。明治写真の三本の木の内の一本と思われますが、あの写真では左端は松のようにも見えます。東海道沿いのこの辺りには松も多く残っていましたから、それかもしれませんが、位置としては境木地蔵でしょう。 Skp11420140619_155145dsc_1400 1985年頃、この木は切られて、武相国境道方面も開発が進んで見通せるようになっています。ちなみに今では武相国境道は造成で尾根が削られ、環状二号線で分断されて境木地蔵からはよく分からなくなっています。 Skp5520140619_150720dsc_1339 今の境木地蔵の中にある木々も、倒壊の危険からか、背の高い木は幹から切られているので、明治期の写真のように遠くから見通せるようなものではありません。しかし、遠く昔、江戸時代の面影は十分に残っています。 Sk09 1979年カメラを所有した嬉しさから、地元の写真を散歩がてら撮り、その後もカメラやレンズを試し取りする時には同じ地点で写真を撮っていました。東戸塚駅の出来る前から今まで、当時は思いもしなかった変化を記録する写真になったようです。ここではまたそれらの写真を紹介して行こうと思います。