naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

旧・東海道の面影2  焼餅坂

境木立場は、富士山、丹沢、箱根や鎌倉方向の山、振り返ると神奈川(横浜)の海が見える、と江戸時代にも知られた所だということで、この付近は武蔵国相模国の国境であり、分水嶺の高台でもあります。従ってその前後は急な坂道が続くことでも有名でした。 今回は境木立場から京へ向かう西側にある、「焼餅坂(やきもちざか)」を取り上げます。 地図で見ますと境木地蔵尊から武相国境道へ分岐した直後の坂であることが分かります。 1961map フェリーチェ・ベアトという写真家のことを調べて行くうちに、この写真に目が止まりました。 東海道横浜藤沢間、とほとんど撮影地不明と銘打たれた写真です。 1427 長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベースにリンク この写真は、焼餅坂から西にある品濃一里塚(これも取り上げる予定)を見たものです。そのことが明確にわかったのは「F.ベアト写真集1」(横浜開港資料館編)のなかで、後ほど取り上げる焼餅坂案内看板にある境木方向を見た写真の反対方向を見た写真との記載が有るためです。 しかし、筆者の記憶ではこの倒れ掛かった松の木は1967年にもあったためです。境木小学校の1年生だったとき、学校行事でマラソン大会が有りました。そのマラソンコースが境木地蔵から武相国境道に入り、途中左折して品濃一里塚の西側から東海道に戻り、焼餅坂を登って学校に戻ってくるものでした。最後のこの登り坂がきつく、マラソン嫌いになりました(笑)。このマラソン大会は東戸塚の土地工事が始まる1970年頃までで終了したので、同校出身者でも知らない人がほとんどだと思います。話が寄り道しましたが、小学一年の時には焼餅坂の記憶が鮮明なので松の木も多分間違えないと思います。ちなみにさすがに危険だったのか、次の年には切り倒されていたはずです。 さて写真は1980年頃の焼餅坂下から一里塚を望んだ構図です。 Sk304 こちらは2014年現在の写真です。同じ建物も見えます。しかし奥の一里塚に続く木々が少なくなっており、さらに奥には東戸塚の高層マンションが見えるようになりました。 Sk284 この写真は、上の写真より焼餅坂側から、標準レンズ画角で撮影しています。ベアトの構図に近く、道の曲がり具合で同じ地点であることが分かります。 Sk280 ただ構図を比較してみるとベアトの写真の方が上方から撮影していることが分かります。おそらくそれは江戸時代の焼餅坂がこの地点で既に標高を稼ぐくらい急だったことを示していると思われます。 さて、2014年現在の焼餅坂を歩いてみました。 焼餅坂は環状二号が完成後、2000年以降も大きく変化しました。境木地蔵尊前交差点の写真です。環状二号環二境木交差点へ向かう道が直進になっていますが、この道はもともと存在しませんでした。そこから左に曲がる細い道が旧東海道です。 Sk283 この石道標はもちろん新しいものです。 Sk281 こんな案内看板が有ります。 浮世絵に描かれた焼餅坂と、1860年頃、2000年頃の写真が貴重で、このうち1860年頃の写真が先述のベアトの写真です。 なお、下に書かれた旧東海道高低差の図のうち、一里塚手前の登り坂が品濃坂となっているのは誤りです。品濃坂は今は見る影も有りませんが、一里塚よりも西方にあります。 Sk278 Sk279 さらに下るともう一つ案内板が有ります。焼餅坂の由来が書かれています。これとは違う筆者の知っている話は、京から江戸に向かう女性にとってはかなりの急坂だったのですが、美人は男が手を引いてくれるのに、そうでない;)女性はほったらかしにされてやきもちを焼く坂だから、というものです。この方が面白い。 Sk217 この看板は最初に出来たものです。これが無い頃はただの薄暗い坂道としか思えませんでした。 Sk216 脇にある道祖神です。1m以上高い所に有ります。昔は左右が切り通しのように削られた跡が見えており、明らかに元の坂道よりなだらかに改修されたことがこのことからもわかります。 Sk275 次に、この写真は先述の案内看板にもあった1860年頃、F.ベアトの写真です。先のベアトの写真と同時に撮られたもので、厚木市郷土資料館所蔵。なぜか長崎大学を含めネットでの公開は有りませんので看板の複製写真。 藁葺き屋根の家の上方に登り坂が見えます。これが江戸時代の焼餅坂です。とすると山頂にある大木が境木地蔵尊の大欅でしょう。 Img_0431 2014年現在の焼餅坂。出来るだけ同じ構図をと探したのですが、道の曲がり具合が同じくらいで、よく分からなくなっています。それは近年マンション建設時に坂の西側が完全に造成されて、山が一つ無くなっているためです。 Sk211 1979年の焼餅坂。ベアトと同じ構図では撮っているものはありませんでした。この写真は境木地蔵側から坂を見下ろしたもので、昼でもなお薄暗く、街灯がつきっぱなしでした。 Skp12620140619_155859dsc_1414 1980年頃、境木方向を見上げた写真。改修されてもなお、急な坂でした。ここをマラソン大会で登った記憶がよみがえります。写真でも分かるように本当に左右の木々がうっそうとしていました。 Sk305 1985年頃。一部西側が削られましたが、まだまだ面影が残ります。 Sk316 ここから2014年現在。 東側斜面も削られ、マンションが建っています。またそれに先だって、携帯電話のアンテナ塔が建ちました。 Sk215 左の竹林は昔のままです。それ以外は面影が無くなったくらい明るい坂になりました。 Sk214 この坂を下った所には小川、いまでは下水路があって、そこには「品平橋」がかかっています。 この橋の名は、品濃町と平戸町の橋という意味ですが、かつてはその地名は無くて、「谷宿土橋」(やしゅくどばし)と呼ばれていました。「谷宿谷戸」(やしゅくやと)と呼ばれていた地だったそうです。 ちなみに谷戸とは関東地方、特に横浜周辺の山間の谷間、川筋のことです。平地の少ないこの地では貴重な農地でした。近くには「蒔田野谷戸」(まいたのやと)が一山向こうにあって、境木中学校辺りからはじまって、平和台バス停に至るもので、谷宿谷戸とはこのあたりで合流します。 Sk213 Sk212 この写真の後方に品濃一里塚が有ります。また谷宿谷戸方向に行くと萩原代官屋敷跡もあります。次回はその辺りの写真をご紹介します。