naka-maの心言・2

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旧・東海道の面影6 権太坂以前を探る

旧東海道 境木・権太坂・焼餅坂にて突如、本ブログで江戸時代の話を始めましたが、400年前の面影が今も残ることを伝えたかったのでした。

今回は、その一方で消された?保土ヶ谷東海道の過去を取り上げます。 その過去の謎とは、「権太坂建設以前の東海道はどこ?」です。 歴史の謎解きというにはささやかな謎ですが、しかし意外にもどこにも正解が見つからないので、誰にも迷惑をかけずに謎解きは自由で、いいかげんにできます;)。

東海道」と検索しますと、飛鳥時代律令制によりおかれた国府のうち東海道諸国をつなぐ、奈良から常陸まで移動するための道として始まり、鎌倉時代鎌倉街道のひとつでもありました。このころの道筋は解明されておらず、不明な点も多いが、全般に、のちの東海道よりも内陸側にあったようです。

しかしはっきりしているのは、江戸時代の東海道備前には、江戸から駿府まで、徳川家康の通った東海道が、後に「中原街道」となっています。家康が途中に休憩所となる「御殿」を何箇所かに設けており、その経路が明確になっています。 この中原街道は一部はその名が残っていますが、江戸城虎ノ門から、小杉(武蔵小杉)、瀬谷(横浜市)、用田(藤沢市)を経て中原(平塚市)に至るもので、鎌倉街道の一部とも考えられる古道です。したがって、現在に残る「旧東海道」は特に江戸から海沿いを通り藤沢へ至るルートは、全くの「新道」と考えられます。

このようになった理由は、橋梁建設や渡し舟の進歩によるものとされていますが、別の要因として、平安、鎌倉時代の海岸線が今より内陸側にあったという「平安海進」も考えられています。 海進とは「縄文海進」のように地球温暖化による海面上昇で地球規模に海岸線が内陸に移動するものですが、中世の温暖化は異論も多いようです。日本の場合、もしかしたら大地震による地殻変動もあったかもしれません。 いずれにせよ、江戸時代には海岸線が後退し、平坦な海岸線に街道を作ることができたのです。

 

さて、横浜、当時は神奈川宿から保土ヶ谷宿についても同じように、鎌倉時代までは海で通れなかったところが通れるようになりました。横浜は明治時代になっても多くの干拓地によって構成された土地ですが、保土ヶ谷から平沼方向も、沼地でした。だから東海道神奈川宿から「海沿いを通って」青木、浅間を通り帷子川を渡って、浮世絵でも有名な保土ヶ谷宿に入るのですが、当初はここはまだ宿ではなく、別のところに「元保土ヶ谷」がありました。今の保土ヶ谷駅周辺は「新町」でした。

ここで、保土ヶ谷の立体地図を見てみましょう。 立体地図は、国土地理院のホームページから日本各地のものを見ることができるのです。 この図はその画面です。 C611443ba95741f08f7aa0a5d336d0df 「地理院地図3D」権太坂周辺の地形図 ここをクリックしますと実際に国土地理院の3D地図が表示されます。しばらく待つと立体地図が表示され、パソコンマウスで自由に回転や拡大ができます。(今回のブログの目的はここの紹介でもあります;) 注:地理院地図3D立体地図を閲覧するには、Internet Explorer 11Google ChromeFirefox をご使用ください。(ハードウェア等環境によっては動作しない場合があります。) 特に横浜は坂の多い町ですが、立体地図で見るといかにも元はリアス式海岸のような段丘であったことがわかります。

 

さて、保土ヶ谷ですが、今井川沿いで、川は現在の保土ヶ谷橋あたりで大きく曲がっているわけで、もともと海進時にはこの辺りまで海が迫っていたと思われます。このような土地は湿地で水害の不安もあったでしょう。「元の保土ヶ谷宿」は、現在の保土ヶ谷町2丁目から3丁目あたりにあったようです。(参考文献:保土ヶ谷町三丁目、元町自治会著「元町の原風景(元保土ヶ谷)」

なお、本陣は保土ヶ谷町1丁目にその後も存続するのですが、新町の方の地名が、「神戸町」「帷子町」ですから「保土ヶ谷町」の地名は元保土ヶ谷宿の名残かもしれません。 保土ヶ谷町三丁目の外れ、権太坂に向かうところに「元町橋」が今井川にかかっており、現存します。

 

いよいよ権太坂ですが、先述のように

旧・東海道の面影5 権太坂 - naka-maの心言・2

1660年(万治3年)に完成しました。徳川幕府により東海道が整備されたのは1601年、保土ヶ谷宿が「新町」になったのは1647年ということなので、それには遅れますが、おそらく保土ヶ谷宿整備の一連の工事だったでしょう。境木立場までを保土ヶ谷宿としていることからも想像できます。 ここで、自作の地図をご覧ください。 1961map3 元町橋もなかったので、東海道はそのまま西進したとします。鉄道開通前には、図に黄色で書いた道が伸びており、そのまま行くと法泉町、今井町、そして二俣川へ通じる道が今も残っています。

そして以前ご紹介した「鎌倉街道中の道」とぶつかります。歴史的にはこの道は鎌倉街道からの道で、金剛寺など古い寺のある道ですから、東海道よりも古い道です。

さて、そこから境木方面へ向かうには、図の二つの方法が考えられます。

 

東海道1.(黄色の道)

誤解されやすいのは、いまの境木本町、権太坂の住宅地は、大規模造成でできたもので、境木商店街のあたりは絶壁だったのです。いま境木町法泉町側から南側の境木本町側へ行くことはかろうじて人道橋がありますが、これは1980年頃にできたものです。 下の写真は1979年頃でまだ橋は建設中です。 P13220140619_160226dsc_1420 しかし、地元民は、(決して是認されるものではありませんが、)東海道線横須賀線(当時貨物線)を渡って行き来する地元民だけが知る通路を通っていました。場所は光陵高校下、保線区の小屋がありました。 1979年の写真。 P13720140619_160651dsc_1426 現在はこんな感じで、人が通ることはできません。 20141228_143147dsc_6496 20141228_143652dsc_6508 今井川は細く深いのでこんな感じで渡れました。 20141228_142518dsc_6486 なお、今井川はもともとの川筋を何度も改修されています。光陵高校下の今井川はいかにも手掘りというかんじの岩をくり抜いた護岸になっています。それだけ水害がでたのでしょう。 P13320140619_160348dsc_1421 このように近年でも法泉側から境木へ行くことはできました。これは鉄道ができる前から地域住民の通行する道がこの付近にあったのではないかと思われます。

しかし、現在の立体地形図ではなだらかに見えても、昔の地形図を見てもらえばわかるように、まっすぐは登れませんでした。

江戸、明治時代の「野道」は古道であることも多いので、それを参考にすれば、南に曲がる元東海道1.(黄色の道)がありました。これの今井川を渡る場所は先に紹介した場所よりも西にあり、今の人道橋に近い場所です。かつてIHI社宅のあったあたりです。

ここから尾根伝いに巻きながら登っていく先には、今でも東海道沿いに小高い高圧鉄塔の立つ丘がありますから容易に同定できます。

さらに1980年ごろまで、境木本町ができる前の、境木町と権太坂の町の境はこの道に並行して存在しており、それなりに意味のある道だったことがわかります。

こうして権太坂を経ずに境木まで登れました。

 

東海道2.(マゼンダ色の道)

この道は地元の子供にもよく知られた道でした。「武相国境道」を進んで清水谷戸トンネルを越えると現在の今井インター近くにでます。

そこも境木町の一部で、一つの町だったのですが鉄道開通により分断されたことが伺えます。しかも完全に境木町と今井町の町境です。 この道は古道が組み合わさっており、しかも品濃一里塚へは境木を通らずにショートカットする道がありました。そして標高を稼ぐのになだらかな勾配なので歩きやすいのも長所です。迂回するといっても何倍もかかる距離ではありません。

 

こう考えてみましたが、筆者は両方とも違うように思えてきました。

なぜならこの二つの道ならば権太坂よりも歩きやすく、わざわざ難所である権太坂にルート変更する意味がないからです。

 

で、第三の案は、なんと権太坂は変更されていない」です。

まず今井川の川筋ですが何度も改修されています。先述の今残る川は明治時代の鉄道建設時に改修したものです。元の川筋は保土ヶ谷町二丁目と三丁目の境、地形図の黄色線沿いに流れていたのです。したがって元の「元町橋」はここでした。

逆に現在の元町橋は明治以降にできたものであれば、問題なく権太坂にたどり着けます。 境木への最短コースは権太坂ですが、それでももし先述の元東海道1.2.のようなコースだったら、何も権太坂コースに変える必要はないはずです。

なぜなら権太坂東海道中膝栗毛などにも出てくるくらい評判の悪い江戸から初めての難所悪路だったから、わざわざ変えてまでここにすることはない(旧東海道のままで良い)はずです。

 

したがって筆者の印象では、権太坂の建設は東海道建設初めからであって、建設は「改修」だと思います。

以前書いたように権太坂は1960年前に改修されています。一番坂二番坂の勾配をつなげて登りを緩やかにしたということですが、これと似たようなことが行われたのではないでしょうか。

また、「権左坂」の名称もこの改修時についたと言われていますが、「権左坂」が「権太坂」になったというのは違うと思います。

筆者は「権太坂」と呼ばれていたのを権左衛門が改修して「権左坂」にしたかったのに定着しなかった、と考えます。

そもそも権太坂は急坂とは言いながら、標高差はそれほどではありません。現に光陵高校の生徒は遅刻しそうになると下のバス停からダッシュしてきます。また箱根を思えば大したことはないでしょう。

それをおとぎ話のような命名の逸話があるのは、逆にあまり良くない命名の事情を隠しているように思えます。

「権太」というのは明治生まれの筆者の祖父が、孫が悪さをするとよく使っていた言葉で、「いたずらっ子、腕白小僧」の意味です。が、さらに「悪者、ごろつき」の意味もあります。

つまり、江戸から神奈川までは海沿いの治安の良い地域を来たのですが、保土ヶ谷あたりから内陸の「山賊」や「おいはぎ」が出る地域に入ったわけで、その警戒の意味を込めて「権太坂」なのではないかというのが筆者の推理です。

 

江戸から戸塚宿を一泊目とする旅人にとって、夕刻から黄昏時に通る坂ですからなおさらです。 その治安の悪さから、死人が多く出て、「投げ込み井戸」が出来、その治安を良くするために道場も兼ねた代官屋敷が出来、境木の茶屋が治安を維持し、旅の無事を祈願する境木地蔵ができた。 以上が筆者の推理です。

 

最初に述べたように歴史の推理は、その証拠が出るまでは自由ですから、と言うことで。