naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

栃木県栃木市 小江戸「蔵の街」小旅行

2016年に小江戸と名乗る代表的な町である千葉の佐原、埼玉の川越に立て続けに行ったので、栃木県の栃木市も行くつもりでいましたがなかなか機会が無いままでした。

まだ暑くならないうちに行ってみることにしました。

東京上野ラインで一気に小山まで行き、両毛線に乗り換えて栃木駅へ行くルートにしました。

4月23日でしたが、両毛線は混んでいました。

栃木駅で降りた人はあまりいませんでした。この先の足利のあしかがフラワーパークで大きな藤が満開だということでそちらに行ったのでしょう。

栃木駅東武日光線と共用駅です。なんだか綺麗で新しく大きな駅です。2002年頃まで昭和初期の駅舎だったそうです。平日のこの日は閑散として静かでした。

駅からは蔵の街を堪能すべく、巴波川(うずまがわ)沿いに歩き出しました。

巴波川(うずまがわ)は渡良瀬川、江戸川に通じており、江戸時代、日光に東照宮が建てられた頃から江戸との交易を担った川です。

鯉のぼりがたくさん。

白壁の土蔵、建物が並ぶのは塚田歴史伝説館、元は江戸時代後期から木材回漕問屋を営んできた豪商、塚田家です。

こちらの中は入場料700円で見学できます。テレビのロケでも使われる有名地ですが、ロボット芝居は見る気がないのでパスしました。

横山記念館。

横山家は店舗の右半分で麻問屋、左半分で銀行を営んでいた明治の豪商です。

蔵は石造りですが、石材は鹿沼産の深岩石で作られているそうで大谷石より水に強いそうです。

こちらの中は入場料300円で、奥の洋館も見られるということなので入ってみました。

初代当主横山定助は江戸末期、栃木の特産品である野州麻の糸を扱って財を成した近代の豪商です。

奥の日本庭園には大正期の洋館があります。

 

麻の江戸交易で財を成し、銀行を設立しました。ここもテレビのロケで使われたことがあるそうです。

すぐ隣にある栃木市立文学館。建物は大正10年に当時の栃木町役場庁舎として建てられ90年間町役場、市役所として使用されてきました。栃木市ゆかりの作家山本有三などの資料があります。

途中見かけた神社には大きな鎮守の木。

日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)に出ました。

江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、朝廷から東照宮に奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道だそうです。京都から中山道経由で直接日光へ行く道です。

ここ嘉右衛門町地区は2012年(平成24年)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、幕末から明治中期の建物が多く残されています。

嘉右衛門とは本陣、名主だった岡田家の代々の当主(現在26代)の名前です。

この日は有名どころが休館日だったこともあり閑散としていましたが昔の街道の面影を感じることができました。

ヤマサの煙突がありました。

この煙突は工場跡地に残っているもので、益子味噌株式会社、屋号ヤマサ味噌という栃木市の、テレビCMを打つほど大きな味噌メーカーでしたが廃業。跡地に嘉右衛門町伝統的建造物群保存地区拠点施設 ガイダンスセンターとして再建されたものだそうです。(なおヤマサ醤油とは関係ないとのこと)

ちなみにこの道の先には油伝味噌という登録有形文化財の建物が残っており味噌田楽を売っています。大きな方が潰れてしまうのも世の流れでしょうか。

駅に向かっています。嘉右衛門町伝統的建造物群保存地区の始点はここから。

栃木駅に向かう大通りを進みます。一直線の道ですがここも日光例幣使街道です。

近龍寺

神明宮

横道で見かけた建物

唐突に新しい建物が大通りにありました。とちぎ山車会館。入館料500円。

2年に一度開催の『とちぎ秋まつり』に出る山車を常時見られるようになっています。佐原や川越でも同じ豪華絢爛な山車を出す祭りがありますが、江戸神田祭の影響が大きいようです。この山車の人形も江戸から購入したものです。

とちぎ蔵の街観光館。この中で手打ちそばを食しました。

それにしてもこの通りは一直線で、てっきり近年の整備かと思ったら、江戸時代の日光例幣使街道で、道幅もそのまま(道中央に生活用水路がある造り)、ということを先述の嘉右衛門町伝統的建造物群保存地区拠点施設 ガイダンスセンターの方が教えてくれました。道の両側に点在する古い建物も多くはそのまま保存されています。

しかし、1990年ごろまではこの通りはアーケード商店街になっており、古建築も取り壊されていったそうです。その後保護活動が始まり電柱の地中化などの努力が進められた結果、今のような景観が保全されたそうです。

明らかに昭和の建物も風情があります。

この建物だけではなく、間口部分が道に対して南側に傾いています。これは栃木城に攻め込むときに間口が見えにくくするためだったとか、これも先のガイダンスセンターの方に教えてもらいました。

栃木市廃藩置県の際、栃木県の県庁所在地でした。(当初は宇都宮県と栃木県でしたが、2県が合併、栃木県になってからも県庁所在地)それが色々あったようですが程なく宇都宮に県庁が移転しました。地元の人は今でも気にしているようです。しかしそのために栃木市の古建築が残され、空襲も受けずにきたことにつながりました。

 

静かな栃木を巡りました。

帰りは栃木駅から東武特急で北千住まで出て常磐線、東京上野ラインで帰りました。特急券代はかかりますが、来るときのJRより30分早く帰れました。

 

 

 

晩春鎌倉と桜 (2024年4月)

鎌倉の桜も散りつつある晩春の一コマです。(2024年4月11日)

 

江ノ電極楽寺駅も春の日差しでした。

極楽寺の参道にあるソメイヨシノは葉桜になりつつありました。

お堂に映る桜は

八重桜、

そして「八重一重咲き分け桜」という同じ木に八重桜と一重桜が咲いていました。

極楽寺は4月7日・8日の2日間、極楽寺のご本尊である秘仏清凉寺式釈迦如来」がご開帳され賑わった直後なので静かに桜を楽しめました。鎌倉のお寺は混雑やマナー低下により、三脚や自撮り棒の禁止はもちろん、カメラによる写真撮影禁止を言われるところもあるのですが、シズ兄写真撮影ができる環境を保って欲しいものです。

 

鎌倉長谷の大仏にも桜

意外に目力があります。

腰越の満福寺

腰越商店街の突き当たり、龍口寺の桜

 

穏やかに桜の季節が過ぎていきます。

ソメイヨシノ 柏尾川2 2024年4月

大雨が降った翌日は冬型気圧配置の快晴でした。

もう桜は散ってしまったかと思いましたが、横浜の桜は開花が遅れたおかげか頑張ってくれました。横浜戸塚の桜を見てきました。

戸塚駅から東側の坂を登ったところにある公園から見た富士山と桜。この桜は戸塚税務署前の坂道にある並木です。

2024.4.10

柏尾川を大船方向に歩いてみました。

前日に降った雨が河川敷に水溜りになっていました。

前回も書きましたが50年経ったソメイヨシノは倒木の危険もあるものが出ており伐採の予定です。

柏尾川沿いを歩きます。

金井公園まで来ると東海道線が向こう岸に見えます。ここで引き返しました。

真っ直ぐ流れる柏尾川です。かつては氾濫も起こしていた暴れ川でしたが治水工事を繰り返して曲がった川も真っ直ぐになりました。

日立の工場跡に中外製薬のビルが立ちました。

 

舞岡地区から戸塚駅までの風景

 

二つの白旗神社 2024年3月

横浜市戸塚区平戸町と品濃町はとなりですが、それぞれ一つずつ、二つの白旗神社があります。筆者も平戸に住んでいた頃から知っていましたが、なぜ同じ名前の神社がすぐ近くにあるのかは疑問でした。

白旗神社は源氏(赤旗の平家、白旗の源氏)の神社で各地に80あまり存在します。祭神は主に源頼朝ですが、8社のみ源義経を祀っています。今回はその対比が面白い平戸と品濃の白旗神社を訪れました。

まず品濃白旗神社です。

平戸白旗神社国道1号線(ただし旧東海道沿いではない)の近くにあり目につきますが、品濃白旗神社は奥まったところにあり、昔は目につきませんでした。今では東戸塚駅ができ、ショッピングセンターの横にある小山が神社なので目立っています。

その品濃白旗神社の入口は南側にあります。

由来書が掲げられています。

以前訪れた藤沢本町の相州藤澤白旗神社と同じく祭神に源義経を祀っています。八社しかないうちの一つです。

康元元年(1256)創建、天正三年、天保十一年にそれぞれ改築されました。 御承知のとおり白旗とは源平争乱の際、敵味方を区別するための籏の色、平家の赤旗に対する源氏の白旗、 源氏そのものを象徴する名である。源氏の武将等が祀られる「白旗(幡・籏)」の名の付く神社は、 全国神社本庁傘下八十余社あり、その内「義経公」をお祀りする神社は八社です。しかしながら、何故この地に祀られたか、 詳細は不明です。
天正十九年以来は當神社の知行となった新見氏(その子孫 豊前守正興は安政条約批准の遣米正史となった正興の建てた祖先の墓が當神社の下にあった)が、明治初頭まで當神社の興隆に尽力しました。大正十二年 関東大震災の際には、社殿は倒壊しましたが、氏子には損害がなかったので、時の部落長 金子鉄五郎は「宮柱うちくだけても倒れても氏子の怪我なきぞ尊き」と献詠し、村人たちは「鎮守さまが身代わりになってくださった」と感激して翌年再建に着工、九月二十八日に竣工しました。
近年に至り、平成19年12月13日不審火により御社殿が焼失。氏子崇敬者の皆様のご協力により平成24年10月20日御社殿改築、竣工しました。

筆者が平戸にいた30年前までは大正時代に建てられた社殿でしたが写真に撮っておらず残念です。

なお、ウィキペディア白旗神社」には以下のように書かれています。

祭神 新編相模風土記稿記載の江戸時代までの主祭神源頼朝、現在は源義経天照大神豊受姫命主祭神源頼朝から源義経に置き換わった経緯は不明。

こうなると今回のブログを書こうと思った面白さが半減するので、ここは新編相模風土記稿が誤記で、由来書の方が正しいと思いましょう;)

ちなみに新編相模風土記稿は天保12年(1841年)成立、品濃白旗神社の改築は天保11年(1840年)と近いです。

敷地は狭く、小高い丘に建てられています。東戸塚開発前の元の地形と比較しても周囲からポコっと出た丘で、古墳のように見えました。

階段途中にある狛犬。新しく感じますが台座には慶応二年(1866年)と刻まれています。

社殿は2012年(平成24年)10月再建

隣にあるのは稲荷神社でしょうか。向こうに高層マンションが見える景色です。

境内には桜も咲いています。

社殿が不審火により焼失した時は新聞の横浜地方版にも載っていました。再建奉納芳名碑はまだ新しい。

北側の小山は白旗山公園になっています。

 

平戸白旗神社国道1号線の平戸交差点近くにあります。

北側に小山があって社殿に登る配置は品濃と同じです。

御神木として古い欅があります。

こちらの由来書です。

由緒
白旗神社
 祭神 源頼朝
 例祭日 9月18日
 当神社は源頼朝公薨じて103年後の乾元元年(紀元1962年 西暦1302)9月9日鎌倉鶴岡の相承院の前住元智が勧請したもので明和6年(紀元2429年 西暦1769)10月14日には相承院を通じ、みたましろとして「右大将家(頼朝公)の御鬢髪三筋」を送られた(東福寺所蔵文書)東福寺の神事奉仕は創祀以来凡そ570年に及んだ。東福寺の鎮守として発足した当神社は、江戸時代には平戸村の鎮守となり(新編相模風土記)明治6年(紀元2533年 西暦1873)11月10日には村社、昭和14年9月20日には幣帛供進村社となったが大東亜戦争後の昭和28年9月15日に県知事の認証を受け新発足して宗教法人となり神徳いよいよ明らかである。因みに現社殿は新築され昭和7年4月10日竣工したものである。昭和54年屋根葺替1月10日起工4月2日完成。平成2年11月御大典奉祝記念として玉垣築造。

 

このように平戸白旗神社は多くの白旗神社と同じく源頼朝を祀っています。

筆者が面白いと思ったのは、品濃白旗神社が1256年、平戸白旗神社が1302年の創建ということです。

ちなみに相州藤澤白旗神社は1249年です。義経を祀る神社の方が古いということになります。

相州藤澤白旗神社ホームページから言い伝えを引用します。

伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれています。
このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示しました。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになりました。

元々寒川神社であった相州藤澤白旗神社に白旗明神として義経を祀るよう頼朝が指示したということですから、頼朝が没する1199年より前のことで、白旗神社となったのがそれより50年以上後ということです。ウィキペディア源義経には

‥宝治2年(1248年)左親衛(北条時頼)が「頼朝は自らの宿意で義経・泰衡を討ったもので彼らは朝敵ではない」として永福寺の修繕を急かす霊夢を見たことが記されており、少なくとも『吾妻鏡』が編纂された頃には義経の名誉が回復されていたことを示している。

とあり、寒川神社が藤澤白旗神社を称するようになった1249年、品濃白旗神社の1256年の頃は源義経が名誉回復した時期であるということで辻褄が合いそうです。

そこでこの場での推論は、

白旗神社は元々は源義経を祀った神社で、8社建てられた以降、それだけではまずいので(?)源頼朝を祀る白旗神社が創建されたというのはいかがでしょうか。その頃から義経が人気だったということになりますね。

こちらもこじんまりした社殿です。1932年(昭和7年)再建です。

階段下の狛犬の隣に移設された古い道祖神庚申塔道標があります。

寛延元年(1748年)と読めます。

「右ぐみょうじ」とは弘明寺までの道を示しています。

鎌倉と弘明寺を結ぶ鎌倉道があったということです。ちなみに旧東海道は品濃坂を下って赤関橋の方へ行ってしまいますのでここは通りません。元町橋から平戸までの国道1号線は明治期に作られました。

隣にある東福寺臨済宗円覚寺派、創建年は不明ですが一説では応永8年(1401年)創建なので白旗神社の方が先にできていたのでしょうか。神仏習合の時代にできた別当寺でしょうか。


こちらは新しく見えますが江戸時代の道標。「これより弘明寺道」なのでしょう。

宝永7年(1710年)

本堂は新しい。

ボケの花の季節でした。

一緒に、近くにある光安寺も紹介します。

光安寺は浄土宗、天正18年(1590)に創建。

中には江戸時代に作られた尼将軍守本尊供養塔があるそうです。

白旗神社と何か関係があるのでしょうか。

 

旧東海道筋からは少し外れたところに鎌倉時代の旧跡があるという紹介でした。

 

ソメイヨシノ 柏尾川 2024年4月

今年の桜、特にソメイヨシノはここ数年で最も遅い開花になりました。

横浜戸塚柏尾川沿いの桜もやっと開花しました。

20240402

一部の木には倒木の恐れがあるため伐採の予定と案内がありました。ここの桜は柏尾川護岸工事の際に新しく植樹されたはずなのでまだ若いと思っていましたが、そういえば1975年ごろなのでもう50年近く経っているのですね。。。

 

この先、1週間の天気予報に晴れがないので次の晴れでは満開を過ぎてしまうかもしれません。

(旧・)東海道散歩 辻堂〜茅ヶ崎 2024年3月

現代の東海道国道1号線の通称ですが、日本橋から横浜までは国道15号線保土ヶ谷、平戸まで旧東海道は国道ではありません。このブログの表題で、「旧・東海道」と書いているのは国道1号線ではないからです。一方、戸塚(品濃坂、平戸)からは国道1号線旧東海道なので、表題には「(旧・)東海道」としています。

ところで前回の藤澤から辻堂までは大半が国道1号から外れているので「旧・東海道」に戻りましたが、今回の辻堂から茅ヶ崎、この先小田原までは国道1号線そのものです。

(明治建設当初は国道15号が「國道1號」、国道1号が「國道2號」でしたがややこしいので省略)

国道沿いですと開発が進んで店舗、工場が多く、車の交通量も多いので散歩には気が進まないのですが、一方、茅ヶ崎には江戸時代の名残である松並木が残っているのでそれを楽しみにして進みました。

 

前回の終点だった辻堂駅から開始です。

ここにある「テラスモール湘南」前回は入らなかったのですが、中は広くて天井が高いショッピングモールが広がっていて平日の昼でも多くの人(近くのマダムがほとんどですが)が来ていました。

辻堂駅から北上して国道1号線に出ました。遠くに松が見えます。

茅ヶ崎市に入ると松並木が多くなりました。

特にこの区間の松並木は見事です。

ここにあるスバル、ジープのディーラーには感謝したいです。ビッ◯モー●ーとは違って。

この松並木は江戸時代からあったのでしょうか。後述の茅ヶ崎高校前の説明板に回答が書かれていました。

茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定)2.2メートル・(推定樹齢四百年)の大きな松が育っております。
遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、この風景はその時代の画家、安藤広重東海道五十三次にも描かれております。
長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。みんなで大切にしましょう。

排気ガスにあって、根の周りはコンクリートで固めてしまっていますが、長く持っているものです。戸塚の松並木も見事でしたが近年は立ち枯れて、さらに工事で伐採されてしまいましたから。

マンホールには烏帽子岩が。

この付近の東海道は前回も書いたように砂州の縁を通っています。縄文海進時には寒川神社くらいまで海岸線が上がっていたと言われており、その後寒冷化で海岸線が南下するのと合わせ、相模川からの土砂が堆積していったもので、地質的にも大きな砂州です。一方で土器や貝塚が出土しており古くから集落があったようです。

しかし江戸時代になっても砂塵の多く舞う場所だった記述があり、だから防砂のため松並木は大事だったのかもしれません。

 

東海道に面して建つ上正寺。浄土真宗鎌倉時代に創建されたそうです。

小和田交差点に面した廣徳寺。高野山真言宗。元和5年(1619)に創建されたそうです。本尊は千手観音。

千手院。高野山真言宗。1600年ごろ開山とのことです。こちらも本尊は千手観音。向かいの廣徳寺と関係があるのでしょうか。

古い住居や蔵がわずかに残っています。

松林(しょうりん)中学校入口交差点。ここから北上すると松林通りに出ます。1889年(明治22年)室田村、高田村、赤羽根村、甘沼村、香川村、小和田村および菱沼村が合併し松林村としてできた地名だそうです。色々あったようで9年後に茅ヶ崎町になって消えた地名ですが、1980年(昭和55年)に町名として復活したらしいです。

TOTO 茅ヶ崎工場。松並木も保全されています。

神奈川県立茅ヶ崎高校の東海道側にも松並木が保全されています。ここに先述の松並木に関する説明があります。

海前寺は曹洞宗、1591(天正19)年の創建とのこと。国道よりやや奥にあり、静かな雰囲気です。海前禅師という名称なのは元々海が目前にあったとか、移転してきたのかわかりませんが各地に同じ名称のお寺があるようです。

本村(ほんそん)のタブノキ。市街地では珍しく自然に大きく育った、ということで市の景観重要樹木に指定されています。

本村を「ほんそん」と読む方に興味がいってしまいます。茅ヶ崎は、今回付け焼き刃で調べてみると神奈川県の中でも歴史の長い地域ということを知りました。

律令制の敷かれた7世紀飛鳥時代後期に相模国高座郡郡衙(ぐんが)=郡の官人(郡司)が政務を執った役所の跡が寒川の茅ヶ崎北陵高校敷地内で発見され下寺尾官衙遺跡群(しもてらおかんがいせきぐん)として2015年(平成27年)国の史跡に指定されました。

国分寺は海老名にありましたが、国府がどこにあったのかはまだ不明で、平塚あたりとの説もあります。また国府津国府の港の意味なのでこの一帯が奈良時代の政治中心だったことは間違いなさそうです。

筆者は、茅ヶ崎はその南なので、古くは砂州の寒村と思っていましたがここにも奈良時代の遺跡が残っていました。

本村居村遺跡は東海道に近く、木簡が出土したところです。

本村は奈良時代から村があったと思われ、まさに「本村」だったようです。

「ほんそん」とか「しょうりん」とかの読みは高座(こうざ、昔はたかくら)郡の渡来人の影響もあったのでしょうか。

本村八王子神社。創立年不明。鎌倉時代には多くの武士が訪れたそうです。

相模線が国道1号線を潜っています。JR相模線は元々相模鉄道として1921年(大正10年)開業。

上の橋が国道1号線です。ちょっと頼りなく見えます。この地形は東海道だけが盛土の上を通っているように見えますがどうなんでしょう。

松並木はイオンスタイル湘南の前でも続きます。

道路拡張により失われた一里塚の写真と歩道に造られた現代の一里塚。

茅ヶ崎一里塚は南側のみ現存しています。

東海道を200年以上見守ったクロマツ」2009年(平成21年)腐朽のため伐採されたクロマツの切り株がモニュメントになっていました。プレートが劣化して残念。

茅ヶ崎駅

茅ヶ崎市出身の有名人の手形がありました。これは宇宙飛行士野口聡一さんの手形。

他に加山雄三さん、土井隆雄さん、12代目市川團十郎さん、山本昌広さんの手形があるそうです。

2024.3.4

旧東海道歩きも地元からだいぶ離れてきました。土地勘がないのでその土地の人からすれば物足りないでしょうが神奈川県民として色々まだ発見があり楽しいです。