naka-maの心言・2

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二つの白旗神社 2024年3月

横浜市戸塚区平戸町と品濃町はとなりですが、それぞれ一つずつ、二つの白旗神社があります。筆者も平戸に住んでいた頃から知っていましたが、なぜ同じ名前の神社がすぐ近くにあるのかは疑問でした。

白旗神社は源氏(赤旗の平家、白旗の源氏)の神社で各地に80あまり存在します。祭神は主に源頼朝ですが、8社のみ源義経を祀っています。今回はその対比が面白い平戸と品濃の白旗神社を訪れました。

まず品濃白旗神社です。

平戸白旗神社国道1号線(ただし旧東海道沿いではない)の近くにあり目につきますが、品濃白旗神社は奥まったところにあり、昔は目につきませんでした。今では東戸塚駅ができ、ショッピングセンターの横にある小山が神社なので目立っています。

その品濃白旗神社の入口は南側にあります。

由来書が掲げられています。

以前訪れた藤沢本町の相州藤澤白旗神社と同じく祭神に源義経を祀っています。八社しかないうちの一つです。

康元元年(1256)創建、天正三年、天保十一年にそれぞれ改築されました。 御承知のとおり白旗とは源平争乱の際、敵味方を区別するための籏の色、平家の赤旗に対する源氏の白旗、 源氏そのものを象徴する名である。源氏の武将等が祀られる「白旗(幡・籏)」の名の付く神社は、 全国神社本庁傘下八十余社あり、その内「義経公」をお祀りする神社は八社です。しかしながら、何故この地に祀られたか、 詳細は不明です。
天正十九年以来は當神社の知行となった新見氏(その子孫 豊前守正興は安政条約批准の遣米正史となった正興の建てた祖先の墓が當神社の下にあった)が、明治初頭まで當神社の興隆に尽力しました。大正十二年 関東大震災の際には、社殿は倒壊しましたが、氏子には損害がなかったので、時の部落長 金子鉄五郎は「宮柱うちくだけても倒れても氏子の怪我なきぞ尊き」と献詠し、村人たちは「鎮守さまが身代わりになってくださった」と感激して翌年再建に着工、九月二十八日に竣工しました。
近年に至り、平成19年12月13日不審火により御社殿が焼失。氏子崇敬者の皆様のご協力により平成24年10月20日御社殿改築、竣工しました。

筆者が平戸にいた30年前までは大正時代に建てられた社殿でしたが写真に撮っておらず残念です。

なお、ウィキペディア白旗神社」には以下のように書かれています。

祭神 新編相模風土記稿記載の江戸時代までの主祭神源頼朝、現在は源義経天照大神豊受姫命主祭神源頼朝から源義経に置き換わった経緯は不明。

こうなると今回のブログを書こうと思った面白さが半減するので、ここは新編相模風土記稿が誤記で、由来書の方が正しいと思いましょう;)

ちなみに新編相模風土記稿は天保12年(1841年)成立、品濃白旗神社の改築は天保11年(1840年)と近いです。

敷地は狭く、小高い丘に建てられています。東戸塚開発前の元の地形と比較しても周囲からポコっと出た丘で、古墳のように見えました。

階段途中にある狛犬。新しく感じますが台座には慶応二年(1866年)と刻まれています。

社殿は2012年(平成24年)10月再建

隣にあるのは稲荷神社でしょうか。向こうに高層マンションが見える景色です。

境内には桜も咲いています。

社殿が不審火により焼失した時は新聞の横浜地方版にも載っていました。再建奉納芳名碑はまだ新しい。

北側の小山は白旗山公園になっています。

 

平戸白旗神社国道1号線の平戸交差点近くにあります。

北側に小山があって社殿に登る配置は品濃と同じです。

御神木として古い欅があります。

こちらの由来書です。

由緒
白旗神社
 祭神 源頼朝
 例祭日 9月18日
 当神社は源頼朝公薨じて103年後の乾元元年(紀元1962年 西暦1302)9月9日鎌倉鶴岡の相承院の前住元智が勧請したもので明和6年(紀元2429年 西暦1769)10月14日には相承院を通じ、みたましろとして「右大将家(頼朝公)の御鬢髪三筋」を送られた(東福寺所蔵文書)東福寺の神事奉仕は創祀以来凡そ570年に及んだ。東福寺の鎮守として発足した当神社は、江戸時代には平戸村の鎮守となり(新編相模風土記)明治6年(紀元2533年 西暦1873)11月10日には村社、昭和14年9月20日には幣帛供進村社となったが大東亜戦争後の昭和28年9月15日に県知事の認証を受け新発足して宗教法人となり神徳いよいよ明らかである。因みに現社殿は新築され昭和7年4月10日竣工したものである。昭和54年屋根葺替1月10日起工4月2日完成。平成2年11月御大典奉祝記念として玉垣築造。

 

このように平戸白旗神社は多くの白旗神社と同じく源頼朝を祀っています。

筆者が面白いと思ったのは、品濃白旗神社が1256年、平戸白旗神社が1302年の創建ということです。

ちなみに相州藤澤白旗神社は1249年です。義経を祀る神社の方が古いということになります。

相州藤澤白旗神社ホームページから言い伝えを引用します。

伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれています。
このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示しました。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになりました。

元々寒川神社であった相州藤澤白旗神社に白旗明神として義経を祀るよう頼朝が指示したということですから、頼朝が没する1199年より前のことで、白旗神社となったのがそれより50年以上後ということです。ウィキペディア源義経には

‥宝治2年(1248年)左親衛(北条時頼)が「頼朝は自らの宿意で義経・泰衡を討ったもので彼らは朝敵ではない」として永福寺の修繕を急かす霊夢を見たことが記されており、少なくとも『吾妻鏡』が編纂された頃には義経の名誉が回復されていたことを示している。

とあり、寒川神社が藤澤白旗神社を称するようになった1249年、品濃白旗神社の1256年の頃は源義経が名誉回復した時期であるということで辻褄が合いそうです。

そこでこの場での推論は、

白旗神社は元々は源義経を祀った神社で、8社建てられた以降、それだけではまずいので(?)源頼朝を祀る白旗神社が創建されたというのはいかがでしょうか。その頃から義経が人気だったということになりますね。

こちらもこじんまりした社殿です。1932年(昭和7年)再建です。

階段下の狛犬の隣に移設された古い道祖神庚申塔道標があります。

寛延元年(1748年)と読めます。

「右ぐみょうじ」とは弘明寺までの道を示しています。

鎌倉と弘明寺を結ぶ鎌倉道があったということです。ちなみに旧東海道は品濃坂を下って赤関橋の方へ行ってしまいますのでここは通りません。元町橋から平戸までの国道1号線は明治期に作られました。

隣にある東福寺臨済宗円覚寺派、創建年は不明ですが一説では応永8年(1401年)創建なので白旗神社の方が先にできていたのでしょうか。神仏習合の時代にできた別当寺でしょうか。


こちらは新しく見えますが江戸時代の道標。「これより弘明寺道」なのでしょう。

宝永7年(1710年)

本堂は新しい。

ボケの花の季節でした。

一緒に、近くにある光安寺も紹介します。

光安寺は浄土宗、天正18年(1590)に創建。

中には江戸時代に作られた尼将軍守本尊供養塔があるそうです。

白旗神社と何か関係があるのでしょうか。

 

旧東海道筋からは少し外れたところに鎌倉時代の旧跡があるという紹介でした。