久しぶりに旧東海道散歩に出かけました。今回は藤澤宿から西へ向かいます。
少し寄り道して北側にある白旗神社に立ち寄りました。
白旗神社由来を神社のホームページから引用します。
白旗神社がいつごろできたのかは定かではありませんが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていました。
文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害されました。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られました。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認されました。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれています。
このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示しました。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになりました。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになりました。
元々は寒川神社だったのですね。同じ名前の神社というのはとても多く、白旗神社も源氏ゆかりの神社として他所に多くあります。
左に見えるのは源義経と弁慶の像です。2019年にできたということなので大河ドラマとは無関係です。
旧東海道に戻って西へ向かいました。
小田急江ノ島線の上を通るのは伊勢山橋です。小田急が堀割りを掘ってその上の東海道に橋をかけたものです。
その脇にある真源寺です。浄土宗、1772年創建。
今回歩いた旧東海道のルートです。国土地理院の「自分で作る色別標高図」を使わせていただきました。ルートは薄い白色で示しています。わかりにくくてすみません。
小田急の藤沢本町駅も堀割りの中にあるように見えますが、右横(東)=白旗神社側は駅のレベルが地平です。地図でもわかります。
古い商店が僅かに残っていました。
ついでに近くにある湘南高校にも立ち寄りました。
旧東海道を西に進んで、引地川手前で右に進むのが元々の旧東海道です。
引地川は境川と並んでこの付近の地形を決めていることが地図からもわかります。
引地川の西岸にある「養命寺」
藤沢市観光公式ページから引用
曹洞宗、大庭宗賢院の末寺です。昭和2年(1927)国指定重要文化財に指定された薬師如来坐像を安置しています。男性的な力強い尊顔や勢いのある尊体から力量のある運慶の弟子の作品ではないかと推定され、建久8年(1197)の銘が胎内から見つかっています。公開は、寅年の4月12日に限られています。
晋山式=新しい住職を迎えるようです。
メルシャン藤沢工場がここにありました。
その正門脇に地蔵さん
「小さな鳥居」
大山道入り口は一の鳥居(大山 阿夫利神社)があります。
四ツ谷一里塚跡には松が植えられています。
旧東海道はこの先、茅ヶ崎へ続きますが、次の平塚宿まで距離があるので今日はここまで。
辻堂駅へ新しくできた道を進みました。
テラスモール湘南は2011年(平成23年)、辻堂駅北口にオープンしました。
駅前広場も大きい。
ここには昔、大きな工場がありました。関東特殊製鋼株式会社(通称:カントク)で今は解散しています。
筆者はこの工場で自分の設計したロストワックス精密鋳物を製造してもらっていましたので、何度か打ち合わせで訪れたことがありました。
辻堂駅から南側は辻堂元町です。東海道からは大きく外れますが、ここは鎌倉時代に京鎌倉往還という鎌倉と京都を結ぶ街道があったところです。
平安時代は、大庭御厨の一部で伊勢神宮の荘園で歴史のあるところでした。
辻堂の地名は昔、四ツ辻に御堂があったことからついたとされています。先の地図にばつ印のように記載してあります。
すでにどの御堂なのか分からなくなりましたが、有力なのが写真の宝泉寺、諏訪神社です。
明治時代から続くお米屋さん、大澤商店。知人が店主なので紹介しておきます。ここに移転する前、江戸時代から続くそうです。
こういった神社や、
道祖神があちらこちらにありました。鎌倉時代からの歴史を感じます。
先の地図に表されるように、旧東海道の下側に平坦な土地が広がっているところです。平安時代から荘園として活用されていたわけですが地質的にはここは昔は砂丘だったそうです。その東側は鵠沼でぬかるんだ土地だったので辻堂は有用だったのでしょう。しかし東海道は砂丘を避けるように北側の山の際を進んでおり、茅ヶ崎にかけて徐々に南下して行きます。
続きはいつになるでしょうか。