naka-maの心言・2

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旧・東海道散歩 (新子安駅ー)鶴見ー川崎六郷 その2

2024年1月、日中、暖冬のため暖かくなりました。

旧東海道散歩は年末の新子安駅からスタートし、六郷土手を目指しました。

 

前回の続きです。

鶴見線国道駅は再掲します。

旧東海道を先に進むと鶴見線の高架があります。

ここは国道駅です。反対側は国道15号線です。

国道駅から鶴見川に出ると鉄橋があります。かつて美しいコンクリートアーチ橋梁でした。

国道15号を渡って旧東海道を進みます。京急鶴見駅の高架が見えて来ました。

高架を潜って対面に旧東海道が続いています。かつては京急鶴見駅は地平にあり、駅の品川方に旧東海道の踏切がありました。

東海道から少しJR方向に進むと鶴見神社があります。

元々は杉山大明神として飛鳥時代に創建されたそうです。実際、敷地内に貝塚がありますから縄文、弥生、古墳時代に村が形成され祭祀が行われたようです。横浜最古の神社です。

浮世絵にも描かれた旧東海道鶴見橋は国道15号開通時にそちらに名前を譲り、こちらは鶴見川橋となりました。1997年に美しいアーチ橋になりました。

鶴見川向こうは市場下町です。京急の駅名は鶴見市場です。

金剛寺平安時代には創建されていた古刹です。寛永年間(1624-1645)にこの地へ移されたそうです。

市場一里塚。江戸日本橋から五番目の一里塚。京浜間で唯一残っている一里塚です。地震や戦災、開発をくぐり抜けて来たわけです。

 

横浜熊野神社平安時代に和歌山熊野本宮大社から勧請したそうです。また、先述の京急が門前を走る遍照院が別当寺だったということです。(別当寺、知りませんでしたが、江戸時代以前まで神仏習合で神社を管理する寺のこと。明治時代に神仏分離が強行されて無くなりました)

時代を乗り越えて街道の雰囲気が残っています。

南武線浜川崎支線が高架でクロスしており八丁畷駅があります。街道横には京急八丁畷駅です。畷(なわて)とは田んぼの畦道で直線の長い道です。当時のこの地域が水田が広がっていたことがわかります。京急駅の品川寄りで京急と斜めにクロスします。

松尾芭蕉の句碑があります。

「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」

芭蕉が1694年(元禄7年)5月に江戸深川から生誕地の伊賀国に向かう際、門人が別れを惜しんで川崎宿のこの地=上方見附付近までついてきたそうです。よほど名残惜しかったのでしょうね。芭蕉は結局このたびの途中で亡くなっています。

小川町から川崎宿に入ります。

教安寺。1553年(天文22年)開山というから古くからあるお寺です。

 

小土呂橋跡に残る親柱(擬宝珠)。江戸時代、ここにあった新川に架けられた石橋が残っていたが昭和初期に埋め立てられたそうです。

ここは砂子町です。古代は砂地であったことがわかる地名です。

歌川広重川崎宿の浮世絵を見ると多摩川の六郷の渡しの到着地点も砂浜になっています。多摩川の河口付近は砂浜だったのでしょう。

京急大師線川崎駅の目の前にある宗三寺。鎌倉時代に開山した禅宗勝福寺が元になったと言われています。

昼に新子安から歩いて、だいぶ日が傾いて来ました。8km程度の道のりですが写真を撮りながら歩くと時間もかかり、結構疲れてきました。昔の人は駅伝ランナーくらい健脚だったのかな。

本日の目的地、六郷土手に到着です。

徳川家康が架けた六郷大橋が洪水で流されたためずっと渡し船だったそうです。ここには河崎万年屋という大きな旅籠があって繁盛しており、本陣の方が先に潰れてしまったそうです。

国道15号線六郷橋です。

京急大師線多摩川沿いを川崎大師、小田新田駅まで行く支線です。京急の創業路線で大師電気鉄道として川崎(六郷橋)ー大師間に1899年(明治32年)開業しました。この写真の下に階段が見えますが、ここが大正時代に移設後の六郷橋駅でした。終戦時に廃止されています。

国道15号線六郷橋の河口側。この先には川崎大師、対岸には羽田があります。

京急川崎駅に戻りました。京急本線高架化後も大師線ホームは地平です。今日は川崎駅からJ Rで帰宅しました。

地震、空襲、再開発の激しかったこの辺りでは江戸時代の痕跡は少ないと思っていましたが、お寺や神社が再建されていて面影を感じることができました。