naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

横浜磯子岡村 三殿台遺跡 2024年1月

このところ筆者の忘備録ということで自分の散歩記録になっています。ネットで情報を検索すると結構定年後に歩いている人が多いようで、同じだなと思います。会社員だと住んでいる所を意外と知らないでいたので再発見ということもあるでしょうか。

今回は小学校の時に行ったきりの横浜磯子にある三殿台遺跡に訪れました。

根岸線根岸駅から歩いてみました。

根岸駅から歩いたのは、もう一つ、横浜市電博物館に行ってみたかったためです。市電に関しては筆者も年齢的、地域的にあまり親しみがなかったのですが、鉄道好きとしてはみておきたかったのです。それについては以下の別ブログに書いておきました。

hanshin.cafeblog.jp

 

この市電博物館は横浜市磯子区滝頭にあります。ここから三殿台遺跡のある磯子区岡村までは2kmほどなので歩きます。

音楽好きの人は聞いたことがあるでしょうが、デュオ「ゆず」の北沢、岩沢二人の出身地です。岡村小学校も出身校ということです。

「ゆず」の歌にも出てくるように、長い急坂を登っていきます。結構狭くて急な坂です。横浜ではこのような坂が意外に多いです。岡村小学校の隣に遺跡があります。

狭い道を登っていくと高台に出ます。三殿台遺跡発掘のきっかけは明治時代に周辺で貝塚が発見発掘されていたため、岡村小学校の拡張工事に先立って1961(昭和36)年発掘調査したのでした。

三殿台遺跡の入り口です。

駐車場はありますが、ここまでの道がすれ違いのできない幅なので徒歩で行くことをお勧めします。

 

磯子の急傾斜地の上に広い平地が広がっています。ここが三殿台遺跡です。

1966(昭和41)年に国の指定史跡となり、翌1967(昭和42)年、三殿台考古館が開館して、遺跡とともに公開されました。

基本的に発掘調査後埋め戻して保存されており、地面には遺跡の外周形状がわかるように擬木が並べられています。復元竪穴住居が3棟展示されています。また、赤い屋根は建物跡保護棟です。

標高55mの高台にあるので、遠くの丘の向こうに富士山や丹沢、箱根が見通せます。古代の人々も見ていたのは噴煙を上げる富士山だったでしょうか。もっとも後述のように貝塚があることからわかるように縄文時代はこの下は海であり、岸壁の上でした。

建物跡保護棟内部。当初から発掘状況を保存展示するために作られました。

三殿台遺跡は、縄文、弥生、古墳時代のムラの住居跡が270棟分重なって発掘されました。特に弥生時代に最盛期を迎え、延200棟を数える集落でした。

 

約2000年前、弥生時代中期の復元竪穴住居。中に入ることもできます。

 

約5000年前、縄文時代中期の復元竪穴住居。

 

内部。なお、復元住居は発掘跡に作ったものではなく、埋め戻した上に、発掘住居跡をモデルに復元したものです。

 

約1400年前、古墳時代後期の竪穴住居

 

解説文にあるように大化の改新頃になっても農民たちは竪穴住居に住んでいました。今回は内部に入れませんでしたが、50年前に来た時には内部にかまどが復元されていました。また、形状は入母屋造の四角形で、以前見た白川郷の初期の合掌造り住居にも似ています。

 

横浜市三殿台考古館展示室には、発掘された石器土器などが展示されています。

貝塚の剥ぎ取り標本

 

1961年発掘された三殿台遺跡。奥に磯子、根岸の町が見え、内陸の岡村は田園風景です。

真ん中のパネルのように、縄文時代は縄文海進で、海水準上昇が5mほど起きたため、横浜では上大岡あたりまで入江となり、根岸は湾になっていました。

日本考古学協会は戦後、静岡県登呂遺跡の本格発掘調査を発端として設立されましたが、高度成長期に差し掛かると多くの遺跡が破壊され開発されていました。しかし三殿台遺跡の発掘にあたり三殿台遺跡調査特別委員会が立ち上げられ、多くの研究者や中・高・大学生、市民ら延べ5,000人が参加しました。以後の発掘作業にもこの委員会方式が影響を与えたとのことです。

日本考古学協会はその後出土品捏造で混乱したりしましたが)

 

筆者が小学生だった1970年ごろは遺跡保存の機運が高まってきた頃で(同時期学生運動の標的にされたりしたが)、地元横浜の三殿台遺跡を社会科で取り上げたのでしょう。

友人と二人でバスを乗り継いで行った三殿台見学は、夏休みの自由研究としてまとめました。復元竪穴住居のスケッチを暑い中で行ったことを思い出しました。

 

今は三内丸山遺跡吉野ヶ里遺跡など大きな遺跡が発掘されて、比較して規模の小さな三殿台遺跡はもはや横浜の小学校でも教えていないようです。

 

帰りは弘明寺まで歩きました。

三殿台の下には、公園がありました。ここは県立外語短大、附属高校が廃校になった跡地です。

急な階段を降りていくと、横浜国大附属横浜中学に出ました。

弘明寺商店街途中を流れる大岡川沿いの桜はまだまだ冬の景色です。

地下鉄で、舞岡まで戻ると春の気配がありました。