naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

「権太坂」と「境木」

2005-01-01-140254s


新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

横浜に長年住んできて、さぞかし横浜らしいところを知っているだろうと言われても、実は横浜の中心部としてよく紹介されるのは、関内、元町、みなとみらいであって、ごく狭い地域なので、一般に横浜市民が近づかない(笑)ところなのだ。

横浜が一番日本全国に紹介される機会は、実は毎年正月2日3日にある、「箱根駅伝」であろう。
近年では、テレビ中継が全コースにわたって行われるので、知名度は高いと思う。この駅伝は関東学生陸上競技連盟主催の、関東地域の大学駅伝で、2005年で81回を数える歴史の有る大会だ。東京大手町から箱根まで5区間に分けた東海道を往復するコースである。従って、コースのほとんどが神奈川県内の国道一号線沿いで、横浜市内のコースである、往路の2区と復路の9区は、最長区間で、アップダウンも有り、各大学のエース級が投入される区間であるため、昔から有名選手が走る。

さて、実家の近所がこの国道一号線であったため、まだテレビ中継がされていなかった頃から、ラジオ中継を聞きながら、正月にこの箱根駅伝を見に行くのが年中行事になっていた。というものの、筆者は特に長距離走が苦手で、陸上にそれほど興味も無かったので、どちらかというと近所で見られる有名行事と言ったものだったが。

だから、早稲田の瀬古などの有名選手は見ていたのだが、どうも記憶があいまいである。

ところで、テレビ中継がされるようになってから、自分がテレビに映ることも多くなったが、それが、人気が出てくると人出が多くなり過ぎて、どこにいるのかも分からないほどになり、早めに行かないと見ることもままならないので、いつしかやめてしまった。今は、元日に実家に帰るので、駅伝は見られない。もっとも2日に帰ると、交通渋滞で不便である。

実家の近所に「サッポロビール」(駅伝の特別協賛)の倉庫が有り、ここが中継定点になっていて「権太坂(ごんたざか)」と呼ばれている。しかしここは「狩場町」バス停であって、住所は「六ツ川」、対面は「権太坂」だが「平戸」の境界である。国道一号で保土ケ谷方向から戸塚方向へ向かうと、バス停の「元町橋交番前」から「権太坂」にかけて登りが始まり、「権太坂上」「児童遊園地前」「狩場町」で頂上につき、「平和台」にかけて下る。ここが選手にとって大きな難所であるので、中継でもよく紹介される。

だが、地元民としては、この呼称は不満である。
そもそも「権太坂」は、旧東海道の江戸から京へ向かう最初の難関で、元町橋から現在の光陵高校、権太坂小学校を経て、境木中学校、小学校へ至る急勾配のことである。
伝説では、当時の参勤交代の殿様があまりの急坂に、付近にいた農夫に坂の地名を問うたところ、農夫が勘違いして自分の名前を答えたところからこの名前がついた、とされる。
東海道中膝栗毛」にも出てくる所だ。

1960年頃、平戸地区の開発が始まった時に、相当改修して、現在の勾配は当時の半分程度と言われる。しかし、今でも尾根伝いのこの道は、右に富士山を望み、昔の面影を残す。筆者が境木小学校に入学した頃は、沿道にうっそうとした松林が有り、少し怖いくらいだった。

その権太坂を登りきると「境木(さかいぎ)」、これは武蔵国相模国の境に立つ大欅(けやき)のことである。この木のある境内に「境木地蔵」がある。伝承では、由比ヶ浜に打ち上げられたこの地蔵が、江戸へ行きたいと言うので、牛車で押して行ったら、ここが気に入ったと言うので、下ろした場所に祠を立てて祭ったという。

ここも、小学校の時は、肝試しにもなった所で、日中でも訪れる人は無く、夏の雷雨のの時、この地蔵の目が光ったのを筆者も見た。

この先は、旧東海道の面影を色濃く残す、「焼餅坂」(急勾配で、美女は男に手を貸してもらえるが、そうでないヒトは焼餅を焼く・・という)「一里塚」「品濃坂(しなのざか)」と続いた。

筆者の通った幼稚園の園長が地元の古老で、昔話や伝承をまとめたものを配られたので覚えている内容だったが、筆者が2歳直前に引っ越してきた時は、造成仕立ての何も無い所でも、歴史のある地域だったのが少し誇りに感じ、うれしかった。そして実際にその場所を見ることが出来て良かった。

現在は、東戸塚駅が出来て、マンション建設が進んで新住民が増えた。
古老が昔の伝承を伝えることも無く、地域の人口が増えてゆき、いずれ忘れ去られてゆくのかもしれないが、若干でもその話を伝え聞いたものとして、何か残せると良いのだが。

元日に「境木地蔵尊」へ10年ぶりに行ってみると、なんと参拝の行列が出来ていた。はて、ここは地蔵の祠があるだけで、神社ではなかったはずだが。

筆者の住む舞岡にも伝承があって、新住民はそれも知らないと地域住民になったとはいえないような気になる。