naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

1995.1.17(2000)

1995.1.17

あのときは長女がまだ6ヶ月で、ちょうど風邪を引きはじめて、神戸に行くのは止めたのでした。でなければ、三連休に前か後ろに休暇をとって四連休にしても良いかな、と思っていました。
朝のニュースは何を意味しているのか最初は良く分かりませんでした。大阪は震度5だし、神戸だけ震度表示がないのも不思議でしたが、それでビルが倒れている映像が理解できませんでした。会社へ行って、昼休みにテレビを見ると阪神高速が倒壊している絵と、神戸のどこだかも分からないアナウンサーがただ火災だ火災だ、と言っているだけの映像。家の父親から電話があり、神戸にいる五家族の親戚の誰とも連絡が取れないとのこと。実家によって今後の対応を考えるが、車で行っても瓦礫だらけであろうこと、行ってどうするかが見当つかないこと、もあって親戚からの連絡を待つことにした。その晩何人かの親戚から連絡があり、ほぼ家も無事で少し安堵。しかし夜中に長女が40度の熱をだし、近くの救急病院へ行くも、一時間待ち。
最後に祖母と同居の叔母の無事が確認できたのが2日後でありました。全壊した祖母、おばの家に残された生活衣料品、貴重品を取りに、またこちらから食料品、ウエットティッシュなどを持って手伝いに行きましたが、それは一週間後のこと、阪神電車が青木(おうぎ)駅まで部分開通した時でした。青木から祖母の家(母の実家)の「あった」魚崎までは良く写真をとったところですが、そこには脱線した阪神電車と道路を塞ぐ家の瓦礫。テレビ報道には、長田の火災現場と、三ノ宮から港にかけて、阪神高速の倒壊現場など限られた地域しか出てこないので、分りませんでしたが、ここ東灘区の木造家屋の倒壊数はすさまじく、皆一階を押しつぶして二階が落ちてきた感じでした。この中にはもう人はいないのだろうか・・・。魚崎の家は玄関が潰れて入れず、45度に壁が傾き、黒塗りの大きなたんすが飛んでいました。壁土や瓦礫に埋もれて、たんすを持ち上げることもできず、結局押し入れにあった古い衣類を取り出すのが精一杯でした。あとは仏壇の位牌と写真と・・これらは小さいのでさがすのが大変でした。この家は結局5月末までこのまま取り壊す順番が来ず、連休に再度入ってみましたが、奥にあった食器などは泥棒に盗まれたらしく、きれいに空っぽでした。
一時横浜にも来ていた祖母と、病院の局員で毎日忙しかった叔母は定年になり、マンションを買って落ち着きました。ちなみに神戸市からの義援金の配賦は全壊家屋世帯の10万円のみでした。この国は何か狂っている、と感じたこの五年でした。
いずれその時はやってくる。テレビではない現実に僕は耐えられるのだろうか。

2000年1月17日