naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

野球の思い出(2002)

野球の思い出

デジカメの話は少し置いておいて野球の話。

金曜日は、久々に横浜スタジアムへ行って、しかも阪神タイガースの二桁安打を見ることが出来た。今年の阪神ファンは全く思いもしなかった快進撃からはじまって、良い夢を見た。最後は最下位にならないように祈ろう。

夏の高校野球が始まった。日曜日は、母校(という言い方はしたことがないが)が神奈川大会三回戦で横浜商業(地元ではY校)に2-6で破れたが、ここ数年初戦敗退が続いていたのでよくがんばった。同日、保土ヶ谷球場(ここは漫画「ドカベン」の舞台で有名になった)、ここの試合は神奈川テレビで生中継されるのだが、ここで、創部三年目の高校が敗退した。この高校の部長は義理の弟で、二年前女子校が共学になってから苦労してやってきた。昨年、初出場で初戦敗退だったが、今年は二勝もしたから、大健闘だ。他にも義理の従兄弟が、県内随一の進学校(かつ甲子園優勝経験がある)で、主将、監督をやった経験者であったり、義父もいまだシニア野球の監督兼主将で中日ファン(?)だったり、まわりで野球の話題が豊富だ。

筆者も野球好きで、話の輪に加わることが多い。しかし、気持ちの中でどこか引け目があるのは、自分がレギュラーになれなかっただけではない。「下手の横好き」が真剣勝負の公式試合に出られないのは当然だし、その自覚もあった。それでも野球が好きなのだし、その気持ちは当時のチームメイトにも負けていなかった。だからそれが引け目とは思っていないし、チームの連中もそれで区別はしても差別しようとするやつはいない。だが、筆者が今思うと、補欠である自分の本分を全うしたかというと否なのである。

もともと幼児期に病気を持っていて、小学校時期は全く運動がだめで、ガキ大将からばかにされていたが、負けず嫌いな性格だったので、不思議とそういうやつともよく遊んでいた。草野球でも下手くそで、体力もなかったが、練習して、体格も良くなってくるとびりっけつだった徒競走も勝てるようになった。しかし、中学校では、運動神経の固まりみたいなのが大勢いたので(大体、運動部の推薦進学をしたくらい)仕方がない、と思っていた。

高校は良くも悪くも輪切りされた集まりで、頭のいいのも揃っていた。だがスポーツは中学のとんでもなく巧いやつを見ていたので、ここなら出来るかも知れないなどという甘い思いがあった。無論それ以前に野球が好きで、一度は高校野球に身を置きたかったし、自分の基礎体力の無さを叩き直そうというつもりがあった。夏の終わりに途中入部した野球部は軟式しかなかった。入部してしばらくは練習についていくのがやっとで、体も痛みがはしったが、やがて秋の終わりには自分でも驚くほど慣れて体力も付いた。冬には下半身強化の練習で苦手の長距離も走り、筋力も付いた。今でもこの時の練習に感謝することが多い。しかし、レギュラーにはなれなかった。

その当時、何故自分だけが試合に出られないのか分からなかったが、今になって分かる。どこかに自分は運動が苦手だから仕方ないんだという甘えがあったので、それが練習の不熱心さに現れていたのだと思う。練習試合の日、遅刻したり、道具を持たなかったり、ベンチで声を出さなかったり(それぞれはその都度理由があったことなのだが)。練習後にピッチャーが居残り練習しているのに、補欠の自分はしなかった。(一時、控えピッチャーさせろと監督に言ったこともあったのだが、この練習を見て怖じ気づいてしまった。スピードもコントロールもそこそこあったんだけど、ピッチャーに特に必要な足腰の持久力が無かった)あの時もっと努力しておけばと今でも思う。または、野球の戦術をもっと勉強して、裏方に徹すれば補欠なりの存在意義ができたのにとも。

結局、腰を悪くして二年で引退した。 どこか不完全燃焼で高校野球時代を終わったことが、引け目なのである。いや本当はその時の自分はこれが全力だったのかも知れない。

この時の練習と、身に付いた体力、気力は今でも感謝している。そして試合に出られなくてもチームの一員として一丸になったことは、勝負に挑む全ての場合に通用することだとも思い知った。

夏の高校野球は、自分のほろ苦くも懐かしい時代をも思い出させる。

2002.7.21