naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

鎌倉街道の古道

旧東海道をいろいろ調べているうちに、関東地方における江戸時代以前の街道は「鎌倉街道」と呼ばれる道が多いことがわかりました。筆者が住んでいる横浜市戸塚区は明治以前は鎌倉郡に属していましたが、鎌倉時代から、関東各地から鎌倉へ駆けつける「いざ鎌倉」の道が、意外に多く残されています。 鎌倉街道についてWikipediaより引用
鎌倉街道かまくらかいどう)は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については「鎌倉往還」(かまくらおうかん)や「鎌倉道」(かまくらみち)とも呼ばれ、また「鎌倉海道」(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在する。
横浜市では鎌倉街道と言えば、関内から国道16号を通って、吉野町で16号と分かれてから弘明寺、上大岡を経て日野、公田までを言いますが、それ以外にも町田や埼玉にいくつもの鎌倉街道かまくらみちがあります。 戸塚では、広重の浮世絵に描かれた吉田大橋の「かまくら道」道標やいくつかの道標が残っていますが、これは旧東海道から鎌倉へ通じる道で、鎌倉時代鎌倉街道は別に有ります。 大きくは三つに分かれており、以下にWikipediaより引用してみます。
現在の古道・鎌倉街道[編集] 「鎌倉街道」という言葉は江戸時代の文化・文政年間に江戸幕府により編纂された江戸および周辺地の地誌に頻用されており、江戸時代に江戸周辺の住民が「鎌倉街道」と口伝する道があったことが分かっている。 また、現在の鎌倉街道には「上道」、「中道」、「下道」という3つの主要道があったとされているものの、これらの言葉の由来については定かではなく、唯一「中道」については吾妻鏡にも鎌倉時代に鎌倉から武蔵東部を経て下野、そして白河へ抜ける道を「中路」と記しており、これが「中道」の語源と推定されている。
中道[編集] 現在、鎌倉街道中道(なかつみち)と呼ばれているのは、鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道で、吾妻鏡にある中路である。 経路については、大手中路の鎌倉口として推定されているのが巨福呂坂亀ヶ谷坂であるが、当時はこれらの道が整備されていなかった可能性もあるとし、奥州藤原氏の怨霊を鎮めるべく頼朝が建立した永福寺の位置などから、二階堂から天園に抜けるハイキングコースを推定する説もある。また、武蔵国南部の経路については、鎌倉から巨福呂坂あるいは亀ヶ谷坂を越えて戸塚方面に向かい、中山を経えて、荏田宿の付近からは、二子玉川、渋谷へ続く矢倉沢往還と同じルートとの推定もあるが、諸説ある。
この中道は、舞岡、日限山を通っており、下永谷、柏尾を経て、東戸塚駅方向の名瀬、川上、二俣川へ続いていることが分かりました。しかも、古道が今も残っているということなので、自宅から近い日限山から柏尾まで妻と散歩してみることにしました。 地図上(「詳しい地図で見る」を押して見てください)で確認してみますと、尾根道を伝って途中下永谷の公園を通りながら、ほぼ道が残っていることが分かります。 それでは、日限山の交差点近く、マンションの裏手からスタートします。 日限山は大規模開発が行われ、舞岡公園手前から全く道がなくなっています。鎌倉古道はここから復活します。 20141207_084600fxn_5735_2 ここは日限山地蔵、高野山真言宗 八木山福徳院の裏手です。しかし、昔はこちらが正面だったのでしょう。 20141207_084808fxn_5736 そのまま進むと突き当たってしまいます。そこで右手の坂を下ります。 20141207_090816fxn_5750 この道は上永谷から戸塚まで通じる道で、横浜市営地下鉄下永谷駅の入口です。この道のために切り通しが作られ、古道が寸断されているのが地図から分かります。 20141207_090954fxn_5751 老人ホーム横の道を登ると古道の続きに出ます。 20141207_091149fxn_5752 20141207_091248fxn_5753 20141207_091503fxn_5755 すぐにまた介護老人施設裏に出ますがそのまま直進できます。 20141207_091738fxn_5758 すると畑の中を通る野道が昔を彷彿させます。 20141207_092432fxn_5766 さらに行くと産廃業者の敷地を通りますがそのまま進みます。 20141207_092559fxn_5769 抜ける頃に、西側に開けて、この日は冬晴れの中、富士山が良く見えました。 20141207_093100fxn_5777 下永谷の町外れを歩いていますが、ここは港南区と戸塚区の区界にあたります。区界が鎌倉古道にあることが地図から分かります。 20141207_094200fxn_5789p 戸塚区の看板が出ました。 20141207_094322fxn_5791 そのまま進むと住宅の裏庭に通じるような小道に入ってしまいますが、ここは地主の提供もあって、下永谷市民の森の境界に出来た小道です。これによって鎌倉古道が保存できたわけです。 20141207_094808fxn_5794 この道も尾根づたいにあるので、西側に富士山が開けて見えます。 20141207_095434fxn_5809 20141207_095822fxn_5817 公園も抜け、古道なのか野道なのか、昔の横浜の雰囲気のある道が続きます。 20141207_100642fxn_5824 20141207_101205fxn_5831 古道の雰囲気もここまで。 20141207_101312fxn_5833 柏尾の小道を抜けて、国道一号線=東海道にでました。鎌倉街道中道はこの先も、名瀬、川上、二俣川と続きますが、残っている道も断続的で、途中の集落名は残っていますが経路は諸説有るようです。従ってはっきりと道の形で残っているのは鎌倉からこのあたりまでと言えそうです。 20141207_102337fxn_5838 東海道も品濃坂から平戸に出てからは国道一号とほぼ同じです。そのまま戸塚に向かうと古い土蔵がぽつんと駐車場の中に残っていました。 20141207_103246fxn_5845 不動坂から旧道沿いに進むと、古いれんが造りの土蔵が有ります。これは「鎌倉ハム」の斎藤家のもので、この間まで斎藤家の旧家も残っていました。「鎌倉ハム」はもともとは明治7年(1874年)にイギリス人ウィリアム・カーティスが下柏尾に建てたホテル、畜産牧場、工場で作り始めたもので、製法は秘密であったものが、カーティスの妻がかつて奉公していた斎藤家に売却して広まったものです。現在の鎌倉ハム富岡商会もこの製法を元に創業したもので、ここが発祥というわけでは有りません。 20141207_105555fxn_5869 ということで、ちょっとした歴史探訪になりました。 中古で買ったニコンD800Eを持って初めて撮影した写真でしたが、それについてはいずれまた。