naka-maの心言・2

http://naka-ma.tea-nifty.com/butubutu/ 「naka-maの心言」続編です

旧・東海道の面影5 権太坂

今回は権太坂です。
この奇妙な坂の名前は、以下のような由来の説が有ります。ここでは権太坂小学校平成15年度卒業生の調査協力による、案内板の内容を記します。

 

 

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・その1 「老人の返事」説
ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名をたずねたところ、自分の名前をきかれたと思いこみ、「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名前になったということです。

 

・その2「本当は権左坂」説
昔、権左衛門という人が代官の指図によってひらいてできた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのころか「権太坂」と呼ばれるようになったということです。

 

さて、あなたはどちらを信じますか?

 

Wikipediaより権太坂の歴史を引用します。

 

1659年10月1日(万治2年8月15日):藤田権左衛門が鍬入れした日。代官藤原の指図により二番坂より下側を建設する。

 

1660年(万治3年):完成

 

さて、旧東海道は、国府の置かれた飛鳥時代から原型はあったと言われ、鎌倉時代鎌倉街道として整備されますが、街道として整備されたのは江戸時代の1601年、徳川家康により「五街道整備」され、「宿」を置いたことで進みました。1603年には東海道松並木や一里塚を整備しています。

 

そうしますと、東海道の初期50年以上の間は権太坂は存在していなかったわけです。

 

また、最初に述べたように、境木地蔵の地蔵堂が1659年建立ということなので、境木立場も同時期に出来たと考えられます。
とすると50年以上、東海道はどこを通っていたのか、となるわけですが、これが意外にもよく分かっていないのです。

 

また、由来についても、権太坂にしても焼餅坂にしても、境木地蔵にしても、平安時代ならまだしも、400年前、白川郷の家が建てられたくらいの時代になぜこのようなおとぎ話が残っているのでしょう。
そもそも権左坂が権太坂になるというのも、東海道中膝栗毛1802年初版)や浮世絵に権太坂の記述が有るわけで、たかだか150年の間に変化するには無理が有ります。
老人が答えたとされる説も「新編武藏風土記稿」(1828年)に記述が有り、それほどの昔話ではないのです。

 

保土ヶ谷という地名も諸説あって、柳田国男の「ホトがや」が人気がある様ですが、こちらは古代の地名故、はっきりしないわけです。近くには星川や法泉、仏向などいわくありげな地名が多いのですが、権太坂はちょっと雰囲気が違います。筆者の興味は尽きないわけですが、実際に歩いてみましょう。

 

地形図であらためて見ますと、保土ヶ谷・元町から尾根伝いに境木まで登って行く坂であることが分かります。

 

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境木立場跡から、東へ向かうとすぐに、境木小学校、境木中学校が有ります。
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その道を北側へ曲がる道が旧東海道です。
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1965年頃この先には大きな松があったと記憶しています。
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とりあえずそのまま真っすぐ、国道一号方向へ続く下り坂を進むと、小さな碑「投込塚之跡」が有ります。ここは「投込み井戸」があった所です。権太坂は、江戸から京へ向かう最初の、箱根につぐ難所で、行き倒れも、おそらく追い剥ぎも多く、二番坂を上りきった横に死人を投げ込む井戸があったと伝えられていました。
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長く伝説だったのですが、1960年代の宅地造成中に人骨が見つかり、発掘されてその存在が事実だったことが確認されました。その供養碑であります。石仏、石碑は江戸時代のものです。
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それでは、先ほどの分岐に戻って、東海道を進んでみます。このあたりが権太坂二番坂の頂上です。
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先に進むと、昔から有るスーパーが有ります。富士見台商店会の名称はいつ頃からか分かりませんが、この辺りから富士山が良く見えます。
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二番坂の頂上に当たるここは、ちょうど細い尾根になっており、左右は切り立っています。
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時期が悪く富士山が見えませんでしたが、冬の朝に見る富士山は見事です。
筆者は通学で通った道なのでその頃は気にもしていませんでしたが、富士山の見えない所に住むとこの姿が恋しくなります。富士の手前にある小山は残土置き場でして、昔はもっと見通しよく見えていたのです。
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北斎の「富嶽三十六景」にもここからの景色が描かれています。東海道程ヶ谷(保土ヶ谷)とされていますので、場所はここに間違えはありません。
が、・・・、写真と見比べると違いがあります。

 

・住宅地の地形がなだらかな北傾斜になっていますが、これは1965年頃大規模開発によって削られた山によって埋め立てられたためです。以前は浮世絵のように急な谷の下に、絵より狭い今井川の河川敷が見えていたと思われます。

 

・ここは江戸からたどってはじめて丹沢山系に富士が重ならずに見える場所です。裾野まで広がる富士は権太坂以西で見られるようになるため富士見の地としても有名でした。しかし、富士山の右に見えるはずの丹沢が絵では左になっています。また、富士山に積もった雪が本来左側(南側)に多いのに対し、絵では右側になっています。

 

・浮世絵の右側にさらに高い崖が見えます。本来二番坂は一番坂から続く坂なので、右手=神奈川側に山は有りません。しかし、地形図を見ますと西側、つまり左手に小高い山が有りますからこれだとすればつじつまが合います。
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このようなことから、この北斎の浮世絵は、原画を裏返しに彫るべき所をそのまま彫って、結果的に裏返しになってしまったと考えられます。その裏返しの絵がこれです。これですと写真と同じ向きになり違和感が有りません。
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事実と断定は出来ませんが、このような考えの方はいらっしゃるようです。
さて、ここから二番坂を下ると、一番坂=権太坂です。

 

改修工事により緩やかになった二番坂を下ると、光陵高校のグラウンドが見えてきます。
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振り返ると、二番坂は切り通しを抜けてきたことがわかります。ここは改修された跡の様です。
Sk250 左手に有るのは権太坂小学校です。この場所は以前はもっと小山になっていて、1975年頃までは、明治期の洋館が残っていました。これはポール・ドリール邸だったということです。どう言う経緯でここに洋館が出来たのか分かりませんが、保土ヶ谷元町には藁葺き屋根の家が1965年くらいまでは多く残っていましたから今残っていれば名所になっていたかもしれません。

 

権太坂小学校前の案内板には「昭和初期の林間学校の生徒の様子」という写真があります。権太坂、境木は横浜の郊外で、このように遠足で来るくらい自然豊かだったのでしょう。ちなみに昭和期、境木にサナトリウム建設の話もあった様です。
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光陵高校のグラウンド。
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光陵高校。ここには1971年に移転して来たのですが、それ以前から横浜国立大学学芸学部=現教育人間科学部の農学教室施設があったようです。
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筆者が小学生だった1970年頃は両脇に松があって薄暗かった印象が有ります。
また、1978年頃は奥に見える竹林の手前に大きな松が残っていました。
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光陵高校の敷地角に有る案内板。
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1979年の同地点。変わらない様ですが、松の木が減ってしまったようです。
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一番坂を権太坂というのならば、ここが頂点になり、やや平らになった所で昔の旅人も一息ついたのではないでしょうか。
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さらに権太坂を下ると開けます。向こうには桜丘、岩崎の台形の丘が見えます。手前の透明な塀は保土ヶ谷バイパスのあるところです。1975年頃までは、ここは橋ではなく尾根道が続いていました。その頃も、先のカーブを抜けて、まだ標高が高いので遠くまで良く見えました。
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それを証明する写真がこちらです。
F.ベアト撮影の江戸末期の写真です。東海道というだけで権太坂とははっきりしませんが、遠景の丘の形状が、上の写真のとおりです。かなりの勾配が続いていたことが分かります。
また、松並木が見事です。保土ヶ谷の松並木は戦争前には多く残っていた様ですが、「松根油」のために戦時中伐採されたそうです。権太坂はそれを免れて戦後も残っていた様です。
Img_0423長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース

 

保土ヶ谷バイパスの上を橋でわたります。
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1979年の同地点です。まだ権太坂の出口までで、首都高、横浜横須賀道路の狩場インターは出来ていません。狩場町の山では、多くの化石が採掘できました。恐竜の化石も出たそうです。このあたりが海岸だったという証拠です。
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権太坂の勾配です。今ではそれほど急では有りません。
左の家が高くなっていますが、改修前はそこまで道も高かった様です。
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権太坂改修の石碑です。
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昭和30年(1955年)建立です。土地寄贈と有りますが、そういえば権太坂の入口は改修前は個人宅の庭先だったような写真を見たことがあります。
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1979年の写真ですが石碑は変わっていませんね。
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下りてきました。
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登り口です。
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正面奥に見えるのが国道一号線です。
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この直線の道路の方が旧東海道で、元町橋ガード手前を右に曲がると保土ヶ谷・元町を抜け、新道に合流します。ここの商店は、筆者が転居して来た1961年頃には唯一のスーパーで、母は筆者を背負って買い物に片道三十分かけて行ったそうです。バスもあったのですがまだ本数が少なかった時代でした。3歳頃にあまりにバスが来ないので歩かされた記憶がありますが遠かったです。そのとき母は権太坂は人通りが少ないので避けていたと後で聞かされています。
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江戸時代の道祖神です。
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元町橋です。今井川は川幅も深さもこの地点では結構あり、この橋が出来るまでは権太坂は無かったと言われています。
Sk269 実際、権太坂ができたのは先述のように東海道整備の50年も後なわけですが、本当にそれまで道がなかったのでしょうか。また、保土ヶ谷の元町がここにあったとすると東海道はここを通っていなくてはおかしいわけで、それまではどこを通っていたのでしょうか。地形図を見れば元町から境木へいくのには権太坂のルートが最も合理的と思えますが、一方で行き倒れが出る程急勾配だった坂とも思えませんし、そうならばわざわざ新道を開墾した意味が無いようにも思えます。
意外に近世のことでも分からないことがあるものですね。いくつか仮説を考えてみたのですがそれはまたの機会に。